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スペースシャトル事故の事例|コロンビア号/チャレンジャー号

Author nopic icongoodnews Nara
カテゴリ:社会問題

初回公開日:2017年11月21日

更新日:2020年08月29日

記載されている内容は2017年11月21日時点のものです。現在の情報と異なる可能性がありますので、ご了承ください。

また、記事に記載されている情報は自己責任でご活用いただき、本記事の内容に関する事項については、専門家等に相談するようにしてください。

スペースシャトル事故の事例|コロンビア号/チャレンジャー号

アメリカ宇宙開発の歴史

世界の宇宙開発の歴史は「地球は人類のゆりかごである」の名言を残し、「宇宙旅行の父」と称されたロシアの科学者ツィオルコフスキーが「ロケットによる宇宙空間の探究」という論文を発表した1898年(明治31年)に始まったと言って良いでしょう。

この頃から宇宙飛行士に事故は付き物で、宇宙にはまだ遠く及ばなかった開発段階においても、数々のロケット事故が報告されています。

ロシアに遅れること20年、アメリカのロバート・ゴダードが1919年に論文「きわめて高い高度に到達する方法」を発表すると、1923年にはドイツがそれに続く著書「惑星間空間用ロケット」を発表しました。

世界で初めての液体燃料ロケットを発射させたのはアメリカで、1926年(大正15年)のことです。さらに、ドイツの敗戦により、第二次世界大戦中に開発されたV2ロケットの技術がアメリカに渡りました。

アポロ計画

冷戦真っ只中の1957年(昭和32年)、アメリカに先駆けて史上初の人工衛星を打ち上げたのは旧ソ連でした。先を越されたアメリカは、その翌年に人工衛星「エクスプローラ1号』を打ち上げるとともに、航空宇宙局「NASA」を設立し本格的な宇宙開発が始動します。

人類初の有人宇宙飛行計画「アポロ計画」が始まったのは、ジョン・F・ケネディ政権下の1961年です。ケネディは、60年代中には人類を月に送ることを表明し、1969年(昭和44年)7月20日には、アームストロング船長の乗った「アポロ11号」が月面着陸に成功しました。

アポロ13号の月面着陸が本当にねつ造だったのか、UFOとの遭遇を隠匿したのかどうかは別として、1972年に終了したアポロ計画は、多くの謎を残しながらも計6回の有人月面着陸に成功し、2度の大きな事故を起こしました。

特にショッキングだった最初の事故は、1967年に起きたアポロ1号の発射台火災事故で、3名の宇宙飛行士が命を落としました。13号では、酸素タンクの爆発事故が起きています。

スペースシャトル計画

続くスペースシャトル計画(Space Shuttle program)は「宇宙輸送システム(Space Transportation System)」と銘打ち、アメリカ政府とNASAの共同で1981年(昭和56年)から2011年にかけて行われました。

主な任務は、人工衛星の打ち上げや宇宙ステーションとの接続で、エンタープライズ号(Enterprise)、コロンビア号(Columbia)チャレンジャー 号(Challenger)、ディスカバリー号 (Discovery)、アトランティス号 (Atlantis)、エンデバー号(Endeavour)が活躍しました。

スペースシャトルの運用開始は、ガガーリンによる人類初の宇宙旅行からちょうど20年後の1981年4月12日で、クルーは2名でした。1984年には、チャレンジャー号で世界初の女性宇宙飛行士が宇宙に飛び立っています。

スペースシャトルは、最大で8人の宇宙飛行士を収容でき、ミッションが完了すると制御システムで軌道を離れ、大気圏に突入しました。次に、スペースシャトルが過去に起こした2度の大事故についてご紹介します。

コロンビア号のスペースシャトル事故

2003年1月26日に打ち上げられたスペースシャトル「コロンビア号」の空中分解事故は、1981年の初飛行から数えて28回目のミッションとなる「STS-107」を終えたスペースシャトルが、地球に帰還する直前の2月1日に起きました。

テキサス州の上空およそ1万9350メートルで、コロンビア号の機体が崩壊し始めると、スペースシャトル「コロンビア号」の乗組員たちは、マニュアルに則って事故を最小限に食い止める危機回避行動をはじめます。

空中分解事故から数秒後、スペースシャトル内の気圧が急低下したことにより、モジュール内は真空状態になりました。ヘルメットのバイザーを開けて作業していた乗員全員は、体内の水分が気化して気泡を発する深刻な「減圧症」に陥って意識を失ったと見られ、これが致命傷になった伝えられています。

コロンビア号は、有人宇宙往還機の第一号として運用され、日本人初の女性飛行士として知られる向井千秋さんや、土井隆雄さんも搭乗したスペースシャトルです。

遺体

マッハ18のスピードで大気圏に突入したスペースシャトルは、高度63キロメートルの地点で空中分解して5分で地上に落下しました。この事故で、7名の宇宙飛行士が犠牲になり、数名の遺体が回収されています。後の発表によれば、クルーたちは最大で1分間生存していた可能性があるとのことでした。

コロンビア号の損傷は、打ち上げの時の衝撃によるものと見られ、まだ軌道上にあった時からエンジニアの何人かは損傷に気づいていましたが、修復の手だてがないとの結論が下され、詳しく調査されることはありませんでした。

チャレンジャー号のスペースシャトル事故

スペースシャトルの最初の事故は、ロナルド・レーガン政権下の1986年(昭和61年)1月28日に起きた「チャレンジャー号」の爆発事故です。打ち上げからわずか73秒後、突如として白煙の中に消えたスペースシャトルは、アメリカ・フロリダ州中部沖の大西洋上で空中分解し、搭乗員7名が犠牲になりました。

当初、スペースシャトルは空中で大爆発を起こしたと伝えられましたが、後の調べで燃料漏れによる機体の変形と、それにともなう空中分解だったことが分かっています。

スペースシャトルは、3Gプラス1.5Gの圧力に耐えられる構造で、クルーたちが乗るキャビン部分は特に頑丈に作られていましたが、スペースシャトル分裂の際に掛かった圧力は、12Gから20Gだったと言われています。

遺体

事故後の捜索は、スペースシャトル墜落の数分以内に開始され、その範囲は史上最大規模の1,600キロ平方メートル、深度370mにもおよびました。翌日には、すべてのスペースシャトルのキャビン(乗員区画)部分が発見され、そのうち判別できるクルーの遺体は、遺族のもとへ還されましたが、その他の遺体はアーリントン墓地に共同埋葬されています。

スペースシャトルの機体が分裂した時の衝撃は致命傷ではなく、事故から少なくとも2分45秒の間は数人に意識があったと見られますが、事故直後のスペースシャトルは、時速300キロを超えるスピードで海面に衝突し、その時の制動力は200Gを超えることから、着水時の衝撃が死因と考えられています。

日本人が関連するスペースシャトル事故

アメリカ宇宙計画では、初のアジア系宇宙飛行士である鬼塚 承次:エリソン・ショージ・オニヅカ(Ellison Shoji Onizuka)は、ハワイ島出身の日系人2世です。テレビ中継でアポロ11号の月面着陸を観て宇宙飛行士に憧れ、1978年(昭和53年)にスペースシャトル計画第1期の飛行士募集で8,079人の中から選出されました。

1985年に運用技術者としてディスカバリー号に搭乗し、翌年1986年1月28日にチャレンジャーの事故で殉職しました。同僚の話によれば、スペースシャトルに日の丸の国旗やハチマキを持ち込み、箸を使って日本食を食べていたということです。

スペースシャトル事故の原因

スペースシャトル「チャレンジャー号」の主な事故原因は、低温による部品の劣化と設計ミスによる燃料漏れでした。スペースシャトルの運用は大きなプロジェクトであるため、組織が分裂して情報の分断化が起こり易かったと言われます。

スペースシャトル「コロンビア号」の場合、ケネディ宇宙センターから打ち上げられた82秒後に、外部燃料のタンクからスーツケース大の断熱材が剥がれ落ち、左の主翼を直撃しました。強化カーボン製の耐熱保護パネルには、直系15センチ以上の穴が開き、大気圏再突入の時に高温の空気が入り込んだことが事故の直接原因といわれています。

ペースシャトル事故の音声・会話内容の記録