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踏み絵の意味と行われ方・効果と実際に行われていた時代

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カテゴリ:文化

初回公開日:2018年03月11日

更新日:2020年08月29日

記載されている内容は2018年03月11日時点のものです。現在の情報と異なる可能性がありますので、ご了承ください。

また、記事に記載されている情報は自己責任でご活用いただき、本記事の内容に関する事項については、専門家等に相談するようにしてください。

踏み絵の意味と行われ方・効果と実際に行われていた時代

踏み絵とは

踏み絵は、歴史の授業で聞かれる言葉ですが、慣用句として使われる場合もあります。聞いたことはあっても、踏み絵の本来の意味がよくわからない、という話も多く聞かれます。

今回は、踏み絵の意味と行われ方、踏み絵を行う効果、そして実際に踏み絵が行われていた時代など、踏み絵に関する事柄を解説します。

踏み絵の意味と使い方

踏み絵とは、禁教令によって禁止されていたキリスト教の信者を発見するために使われていた絵のことです。踏み絵には、イエス・キリストや聖母マリアが描かれており、足で踏んで使用します。

同じような意味で「絵踏(えふみ)」という言葉がありますが、本来踏み絵を踏ませてキリスト教徒を発見する手法のことを「絵踏」と呼び、「踏み絵」は人に踏ませる絵そのものを指します。現在は、絵を踏む行為自体を「踏み絵」と称されることが多くなっていますが、本来は手法と使われる道具という違いによって名称が区別されています。

絵を踏むという行為

具体的なやり方は、イエス・キリストや聖母マリアが描かれた踏み絵を、キリスト教徒と思わしき人に足で踏ませ、絵を踏むことができなかったり、絵を踏むことを拒否すれば、キリスト教徒とみなされ、逮捕・処罰されました。

正月の恒例行事

寛永5年から安政4年の間、長崎奉行所では毎年旧正月に恒例行事として踏み絵を行なっていました。

踏み絵の日は、男女ともに晴れ着や礼装を着て踏み絵を行ったと言われています。長崎の有名な花街円山町では、正月の8日に踏み絵が行われ、美しく着飾った遊女たちが役人が読み上げる源氏名順に応じて、次々と右の素足で踏み絵を踏んでいきました。

店の前に美しく着飾った遊女たちが居並び、次々と踏み絵を踏んでいく様子を見ようと多くの見物人が訪れ、お祭りのような賑わいを見せたと言われています。踏み絵が終わると、「後賑やかし」と呼ばれる厄払いのための盛大な祝宴が行われました。

キリスト教徒であるなしに実地されるようになると、年中行事としての意味合いが強くなり、遊女が晴れ着をお披露目する場として踏み絵が行われるようになりました。このような歴史的背景から、「絵踏」という言葉は俳句の春の季語として使われます。

踏み絵はレプリカで行われていたのか

踏み絵は当初、イエス・キリストや聖母マリアが紙に描かれた絵が使用されていました。しかし紙製だと、数多くの人に踏まれるうちに摩擦で絵が擦り切れたり、絵が破れたりするなど、損傷が激しいので、量産できてコストが安い版画が使用されるようになりました。その後時代が進むと、キリシタンから押収したメダイ(キリストや聖母マリアが鋳造された金属製のメダル)や、聖母像が踏み絵に使われるようになります。

さらに、踏み絵が制度化されるようになると、木の板に彫ったものや、真鍮製の踏み絵板が作られるようになり、多くの奉行所で使われるようになりました。

踏み絵が廃止されると、ほとんどの踏み絵はそのまま廃棄されました。しかし、数は少ないですが、博物館などに収蔵されている踏み絵もあり、キリストの顔がわからないほど摩耗した形で現存しているものがほとんどです。

禁教令とは

踏み絵が行われるようになった背景には、日本で長い間続いていた禁教令が大きく関わっています。禁教令とは、特定の宗教を信仰したり、布教活動を行うことを禁ずる法令のことで、海外ではローマ帝国の皇帝ネロやディオクレティアヌスのキリスト教禁止礼と弾圧も含まれます。

日本の禁教令もキリスト教を禁止する目的で発令され、キリスト教徒にとって苦しい状況が長く続きました。

禁教令の始まり

日本で最も早く出された禁教令は、1565年に正親町天皇が出した追放令です。この追放令は、京都から宣教師を追い出す目的で出されましたが、織田信長がキリスト教に対して寛容に接しており、保護政策をとっていたことから効果はありませんでした。

その後、織田信長に次いで権力を握った豊臣秀吉は、当初はキリスト教を容認する立場をとっており、キリスト教に改宗する大名も多くいました。しかし、長崎がイエズス会領地になっていることを知り、驚いた秀吉は、キリスト教布教と南蛮貿易を禁ずる「バテレン追放令」を発令しました。

その後1596年に、漂着したスペイン船の乗組員の発言が問題となった「サン=フェリペ号事件」がきっかけで再び禁教令を出し、京都で活動をしていたキリスト教徒を捉え、長崎で処刑します。

禁教令があるにも関わらず、好き勝手振る舞う修道会の活動が目に余ったため、秀吉は弾圧に踏み切ったと言われています。

江戸時代の禁教令

江戸時代の初期は、秀吉の時代同様キリスト教に対して弾圧と呼べるような政策は行なっておらず、来日した宣教師たちが徳川家康・秀忠に謁見し、日本で布教活動を行なっていたという記述が残されています。その背景には、諸外国が日本との貿易権を狙っていたためという目的もあり、布教活動は活発化して行きますが、幕府の権力下に入ることを拒んでいました。

その後、1609年に「マードレ・デ・デウス号事件」という事件が発生します。事件の処理には、事件の当事者でありキリスト教大名有馬晴信と、目付役の岡本八木が関わりますが、両者の間で収賄事件が発覚し、大きな混乱を呼びました。

この事態を重く見た幕府は、本格的にキリスト教弾圧を行うようになりました。

処刑されるキリスト教徒たち

徳川秀忠は1616年に、長崎と平戸の2港のみにヨーロッパ船の来航を制限する「二港制限令」と、キリスト禁止令を出します。当初は幕府の直轄地のキリスト教徒を取り締まるものでしたが、のちに全国へと広めていき、幕府はキリスト教徒の発見と棄教を推進していきます。

京都に捕らえられていたキリスト教徒52名が処刑された後、日本へ潜伏を試みた宣教師2名が偶然発見される「平山常陳事件」が起こり、不信感を強めた幕府は大弾圧を行います。1622年、長崎と鈴田の牢に捕らえていた宣教師と信者、彼らを匿っていた人々を含め55人を、長崎西坂で処刑する「元和の大殉教」が行われ、立て続きに江戸で55名、東北で108名、平戸で38名を処刑しました。

徹底したキリスト教弾圧

その後幕府は、治安維持のために制定された隣保制度である「五人組制度」を活用してキリスト教徒発見に役立てたり、キリスト教徒ではないことを寺院に証明させる「寺請制度」など、社会制度を整えることで、キリスト教徒の発見と取り締まりを強化しました。

また、1637年に起きた「島原の乱」で、農民に多くのキリスト教徒が存在していたという事実を受け、1618年に長崎で始まった訴人報償制を全国に広げ、キリスト教徒を発見した場合密告することを推奨しました。

江戸幕府の徹底したキリスト教弾圧は、世界でも例がないほど徹底した政策として知られています。

踏み絵が実際に行われていた時代