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鳴かぬならに続く言葉と作者|殺してみせようホトトギス

Author nopic iconkyoko
名言・格言 / 2018年03月30日
鳴かぬならに続く言葉と作者|殺してみせようホトトギス

鳴かぬらに続く言葉は?

「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」という句は誰でも耳にしたことがあるでしょう。江戸幕府を開いた、徳川家康の句と現代では認識されています。

他にも天下人とされる織田信長と豊臣秀吉の、鳴かぬならに続いてホトトギスで終わる川柳が残されていますが、これらも実際本人たちの自作の句なのでしょうか。

今回は、武将達が残したとされる「鳴かぬなら」で始まってホトトギスで終わる川柳や、武将たちなどをご紹介します。

徳川家康

「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」徳川家康の焦らずあきらめることなく、耐え忍ぶ強さを詠んだ句とされています。

徳川家康「1542~1616(天文1年~元和12年)」三河(今の愛知県)生まれ、幼少の頃の名前は竹千代と言い、三河岡崎城主松平広忠の長男として生を受けます。

家康は幼少から苦労し、今川家と織田家に人質や囚われの身として少年時代を過ごしています。やがて成長し、今川家や信長と手を結び東海地方などの支配勢力を広げ、甲斐国(現在の山梨県)武田家一族を滅亡させます。また、秀吉が統一を果たすと力を貸して五大老の職に就きました。

1603年に幕府の主権者となり、江戸に幕府を開きました。大阪夏、冬の陣で豊臣家を滅亡させ、実質全国統一を達成させました。当時としては長寿で、75歳まで生きました。

ホトトギス

鳴かぬならに続く言葉と作者|殺してみせようホトトギス

和名「あやなし鳥」と呼ばれる「ホトトギス(子規)」は、カッコウ目カッコウ科で、大きさは鳩より小型の鳥です。頭から背中にかけてねずみ色、胸から腹は白く、黒斑の模様があります。

アフリカやインド、中国南部に生息する渡り鳥で、日本には山笑う5月の半ばに飛んできます。夏鳥として、九州より北の地域にやってきますが、北海道ではあまり見られません。

自らは子育てはしないで、ウグイスやミソサザイなどの巣に卵を産み付けます。ウグイスやミソサザイは、ほとんどは不審に思わず卵をあたためて、ヒナに孵っても怪しむことなく成長するまで育てます。

ホトトギスの特徴

鋭い鳴き声でキョキョキョと鳴き、「テッペンカケタカ」や「東京特許許可局」などと叫んでいるように聞こえるといわれています。

古くから、春告げ鳥のウグイスや秋の景物である雁と並んで「万葉集」「古今和歌集」「新古今和歌集」などに数多く詠まれ、黄泉の国と現世を行き来する鳥ともされました。

ホトトギスを詠んだ句に山口素堂の「目に青葉山ほととぎす初鰹」や、宝井其角の「あの声でとかげ食らうか時鳥」などが知られています。

たくさんの呼び名があり、田植えの時期に日本に飛来することなどから「勧農鳥(かんのうちょう)」「卯月鳥(うづきどり)」「早苗鳥(さなえどり)」「黄昏鳥(たそがれどり)」、黄泉と現世を往来することから「魂迎鳥(たまむかえどり」「死出田長(しでのたおさ)」などがあります。

雑誌「ホトトギス」

「ホトトギス」社が発行する俳句雑誌の名で、1897年(明治30年)に正岡子規の友人柳原極堂が最初に刊行しました。夏目漱石のデビュー作「吾輩は猫である」はこの雑誌で発表し、出版しています。また、正岡子規は、夏目漱石の親友でありました。

正岡子規「1867~1902年(慶応3年~明治35年)」の「子規」は、ホトトギスの名称からとった俳号です。

正岡子規は血を吐いて、結核の病と分かった時に死期が近いことを覚りました。昔は、結核は不治の病と恐れられていました。血を吐くまで鳴いて、そのくちばしが赤いと言われるホトトギスに、自分の運命と重ねて俳号を「子規」と名乗りました。

殺してみせようホトトギス

「鳴かぬなら殺してみせようホトトギス」は、織田信長の「殺してしまえ」の「殺して」と、
豊臣秀吉の「鳴かせてみせよう」の「みせよう」の複合した川柳です。

鳴かないから、見せしめに殺してしまおうという意味にとれ、かなり自分勝手で衝動的な残酷さを感じます。

鳴かぬならそれもまたよしホトトギス

「鳴かぬならそれもまたよしホトトギス」は、松下電器産業(現パナソニック株式会社)の創業者で知られる、「経営者の神様」と呼ばれた松下幸之助本人の作です。

鳴かないならそれはそれでいいという、相手の意思や考えを大事にしようとする態度で、そこには強引さやワンマンな面は見られません。3人の武将それぞれの「鳴かぬなら」に続く川柳の中で、どれが自分の性格にもっとも近いと感じますかと、質問された時の答えといわれています。

松下幸之助

「鳴かぬならそれもまたよしホトトギス」の句を残した松下幸之助(1894~1989)は、和歌山県の農家の三男として生まれました。

9歳で小学校をやめて大阪へ住み込みで働きに出た後、1910年、大阪電灯(現在の関西電力)に見習いの工事員、検査員として入社します。昼間に仕事をするかたわら、夜間に関西商工学校夜間部予科へ通い、苦労して卒業しました。

大正7年(1918)に改良ソケットを作り出し、家庭で用いる電化製品を製造する松下電器器具製作所(現在のパナソニック株式会社)を創業しました。昭和10年(1935)に松下電器産業に改め、家庭用電化製品の大企業へと成長しました。

「PHP研究所」や、政治家などを育てる「松下政経塾」を作って活動したことでも知られています。「鳴かぬなら」の他に、「青春とは心の若さである」という言葉も残しています。

鳴かぬなら殺してしまえホトトギス

「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」は、織田信長の性質を表わした川柳の句です。自分の思いどおりにならないと我慢ならない、激しい気性と性急で残酷な性格が窺えますが、織田信長のイメージと実像は異なるものだったと、最近では改めて歴史の真実が見直されてきています。

織田信長

「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」の織田信長「1534~1582(天文3~天正10年)」は、尾張(現在の愛知県)生まれで、父は信忠、少年時代の名前は吉法師または三郎、元服(今の男子の成人式)して信長と改名します。

父が亡くなり家を相続し、一族の争いをおさめるために働いて尾張国を統一し、三河の徳川家康と同じ目的のために手を組み、桶狭間の戦いで今川義元を敗るなど、他の武将たちと権力を争います。

美濃国の稲葉山城を岐阜城と変えて尾張へ移ります。1573年に足利義昭を追い出し、室町幕府を滅ぼして室町時代を終焉させました。長篠の戦いの後、近江(現在の滋賀県)に勢力を広げて、安土に安土桃山城を築きます。

1582年6月2日、明智光秀に不意打ちを食らい、本能寺に自ら火を放ち、49歳の短い生涯を終えました。

鳴かぬなら私がなこう

「鳴かぬならわたしがなこうホトトギス」は、明智光秀の性質を表わした句とされています。鳴かないなら自分が鳴いて見せようと、相手に無理強いしない、人に尽くすタイプだったように想像されます。

「鳴かぬなら放してしまえホトトギス」これも明智光秀の気質を表現した句とされています。鳴き声が聞けないなら自由にしてやろうという、諦めのような気持ちと強引さのない思いやりが感じられます。

明智光秀

「鳴かぬならわたしがなこうホトトギス」の明智光秀がなぜ、織田信長に背いたのかは現代に至ってもなお諸説さまざまに論じられています。

明智光秀「1528~1582(高禄1年~天正年)」は美濃国の人、普段は十兵衛の名で通っていました。父は光綱、出自は美濃の土岐氏の流れを引く者といわれています。

1566年、織田信長に仕えて忠義を尽くして働きましたが、1582年6月、京都本能寺にいた織田信長を突然襲撃して自殺に追い込み、長男信忠も二条城で命を奪いました。

その年の13日に山崎の戦いで羽柴(豊臣)秀吉に負かされ、逃げる途中で土着の民に命を奪われ、「3日天下」と言われた56年の生涯を終えました。

鳴かぬなら鳴かせてみせよう

「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」は、豊臣秀吉の句といわれています。相手を暴力などではなく、甘言やサービス精神で気持ちをほぐして動かし、結果的に自分の望んでいる方向にもっていく器用さのある人という印象を持ちます。

豊臣秀吉

「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」の豊臣秀吉「1536~1598(天文5年~慶長3年)は尾張の人で、子供のころの名前は日吉丸、父木下弥右衛門は、織田信秀に仕えた足軽(普段は雑役に従事し、戦争の時は徒歩で兵士として戦う人)でした。

青年時代は藤吉郎と名乗り、信長に仕え、手柄と持ち前の頭の回転の速さで、優れた武将としての存在を際立たせていきます。

近江(今の滋賀県)の領地を与えられたり、筑前守として任務を命じられるなど、出世の階段を着実に上っていきました。

光秀を敗った後は九州、四国、関東地域、奥羽地方を征服して、1590年に日本全国を統一しました。その後、朝鮮半島に出兵するも失敗し、病に罹って京都伏見城で63歳の生涯を終えました。

そういう種類のホトトギス

「鳴かぬならそういう種類のホトトギス」は、現代の詠み人知らず(作者不詳のこと)の川柳です。この句のように、現実的に、あるいは生物学的に判断すれば、全く鳴かない種類のホトトギスというのはなく、鳴かないとしたら病気か怪我が疑われます。

3人の武将たちのように、鳥が鳴くことにもはやこだわりはありません。ホトトギスは昔、夜に鳴く珍しい鳥とされ、5月頃に渡ってきて鳴く初音を「忍び音」と言いました。

ホトトギスが、植物の復活と再生を迎えた春の訪れを告げ、人間にとっては、我が世の春(自らの家の繁栄、興隆を意味する)を歌っているように鳴くということでこだわったのでしょう。

迷信や縁起を気にした昔の人は色々なことに意味づけをしました。この詠み人知らずの句は、現代人らしい作といえます。

鳴かぬならに続く言葉の作者は?

江戸時代末の「甲子夜話(かっしやわ)」という随筆集に、3人の天下人のそれぞれの気質の特徴を表現する川柳として伝えられました。

「甲子夜話(かっしやわ)」は、江戸時代末に、肥前の平戸藩主第九代松浦清(ペンネーム静山)が著した随筆です。ホトトギスが鳴かなかった時、3人の天下人はどんな言動を示すかという、想像で作られた句で、詠み人知らず(作者はわからない)として伝えられました。

また、3人の天下人以外の句も残っています。「いや待てよ鳥屋に売ろうホトトギス」「鳴かぬならもらっておけよホトトギス」

滑稽なおかしみが感じられ、江戸落語の噺になりそうな面白い川柳です。現実的というか俗な考えで、この句を作った人が身分のある武士ではなくて、庶民だったのではないかと思われ、だからこそ名を伏せられたのではと窺えます。

徳川家斉の句など

11代将軍徳川家斉を皮肉ったといわれる川柳「鳴かぬなら鳥屋へやれよホトトギス」は、戦に明け暮れた3人の武将と違い、太平の世で、戦ったこともない将軍様への痛烈な皮肉らしいといわれています。

また、豊臣秀次の連歌の師匠だったといわれる紹巴(じょうは)の気質を表わした句ものこっています。「鳴かぬならなかぬのもよし郭公」鳴かないならそれはそれでまた良いと、自然の風物に愛情をもつ風流人の心が窺えます。

他に加藤清正の気質を表わした句「鳴け聞こう我が領分のホトトギス」があります。加藤清正は、安土桃山時代に豊臣秀吉に仕えて活躍した武将です。

松浦静山

松浦静山は、藩主の座を譲り「ご隠居」と呼ばれる身になると、文筆に取り掛かりました。生涯を終える20年間で、幕府や他の藩に関係する事件、社会のできごと、世間のエピソード、外国についての見聞、不可解な綺譚と、広範囲の分野の随筆をたくさん残しています。

彼の残した随筆集は、当時の歴史を知る上で、貴重な研究対象になる書物の一つとされています。また、「甲子夜話」の題名は甲子の夜に書き綴ったことから付けられています。

ホトトギスの句を残した偉人たちから人生を学ぼう

徳川家康の「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」、織田信長の「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」、豊臣秀吉の「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」、明智光秀や紹巴などの「鳴かぬなら」の句も、それぞれの気質を川柳で、第三者の独断と偏見で表現した作です。

今回は、ホトトギスの名句を残した武将や企業経営者をご紹介しました。現代は戦国時代に比べたら平和に見えます。しかし、現実は世界中で貧困などの格差や差別が広がり、そのためにテロや内戦が絶えません。

日本も非正や規雇用やブラック企業が増え、ますます貧富の格差が拡大しています。このような明るい展望の見えない時代の中で、とてつもないエネルギーとバイタリティー、揺るぎない信念をもっていた戦国武将や松下幸之助の生き方から、何をなすべきか学ばなければなりません。

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