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家紋が橘の苗字・種類・家系・家紋が橘の意味・有名人|丸

Author nopic icon橘ケイ
カテゴリ:文化

初回公開日:2018年05月18日

更新日:2020年02月28日

記載されている内容は2018年05月18日時点のものです。現在の情報と異なる可能性がありますので、ご了承ください。

また、記事に記載されている情報は自己責任でご活用いただき、本記事の内容に関する事項については、専門家等に相談するようにしてください。

家紋が橘の苗字・種類・家系・家紋が橘の意味・有名人|丸

和銅元年(708)、長年にわたって皇室に仕えてきた県犬養三千代は、功績を称えた元明天皇によって「橘宿祢」の氏姓を賜与され橘三千代と名乗りました。

本来、この特典は彼女一代限りのはずでしたが、三千代の没後、息子の葛城王と佐為王が皇籍を離れて臣下に下る時に「橘宿祢」の氏姓継承を願い出て許され、それぞれ橘諸兄、橘左為を名乘り氏族としての橘氏は、ここからはじまったと言われています。

この時代にはまだ家紋は存在しませんでしたが、後世になって橘氏出身の貴族が氏姓にちなんだ橘の花木の紋様を家のシンボルとして使用するようになり、それが橘の家紋となりました。貴族を輩出はしたものの藤原家との政争に敗れて出世の道が閉されます。

一族から第52代嵯峨天皇の皇后・嘉智子を出して名門の仲間入りを果たしますが、16世紀末には直系が絶え、ついに古代から続いた豪族「橘氏」は断絶します。

筑後橘氏

平安時代に筑後国蒲池を領した橘氏の庶家。橘諸兄から五代後の橘広相の五男で中納言・橘公頼が大宰権帥として九州に下向。承平天慶の乱で関東の平将門と同時期に伊予で藤原純友が伊予で反乱、藤原純友の乱が発生します。大宰府を落として柳川に迫った藤原純友の弟・純乗の軍勢を三男・敏通と共に蒲池で撃退。この功により敏通は蒲池の領主となります。

敏通の子孫は代々、大宰府の府官を務めますが、源平合戦の功で筑後国三潴郡の地頭職となった鎌倉幕府の御家人、嵯峨源氏の源久直が蒲池領主の橘氏の娘婿となって定住。初代蒲池氏を称しました。こうして筑後橘氏は嵯峨源氏の一族として取り込まれていきました。

肥前橘氏

筑後橘氏と同じく肥前国長嶋を領した橘氏の庶家は、藤原純友の乱で純友を討った功により伊予国宇和郡を賜った橘好古の子孫といいますが異説もあります。その後、鎌倉時代の橘公業の代になり頼朝に仕えて功のあった公業は出羽国秋田郡に領地を賜りますが、鎌倉幕府第4代将軍・藤原頼経によって旧領の宇和郡を取り上げられ、替地として肥前国杵島郡長嶋を与えられました。

こうして橘公業の一族は肥前国を中心に広がり橘公村の代には渋江氏を名乗り、弟三人にそれぞれ牛島・中村・中橘を名乗らせました。肥前橘家・渋江氏の隆盛は室町時代まで続きますが、やがて下剋上の乱世に呑みこまれ、豊臣政権の末期には壱岐の松浦氏を頼る身となって歴史から消えていきました。

遠江国の井伊氏

遠江国引佐郡井伊谷に発祥の井伊氏は、本姓は藤原北家といい、家紋は橘ですが橘氏とは関係がありません。井伊氏と橘の係わりについては家伝に一つの逸話が記されています。

井伊氏の始祖は井伊共保という平安時代の人物ですが、赤ん坊の頃、井伊谷八幡宮の御手洗の井戸の傍に捨てられていた捨て子でした。そこを八幡宮の神主が見つけるのですが、手に橘の枝を握っていたそうです。この赤ん坊は7歳になって藤原北家出身で遠江国司の藤原共資の養子となって家督を継ぎ、井伊谷に館を構えて井伊氏を称しました。

その伝説から井伊氏は井戸の井の字と橘紋を合せた「井桁に橘」を家紋としました。後に家紋は二つに分かれて橘紋を家紋、井桁紋を戦の旗印にしました。「井桁に橘」といえば日蓮宗の寺紋が知られいますが、これは日蓮が共保から8代目の井伊盛直の時の分家・貫名氏の出自だとする伝説に由来しています。

徳川四天王の一人

井伊氏は遠江守護の今川氏に臣従したり対立したりと微妙な関係が続きますが、戦で討ち死にしたり今川氏に謀反の嫌疑をかけられて討たれ、一族の多くを失なって断絶寸前まで追い詰められます。天正三年(1575)、今川氏真に討たれた井伊直親の遺児・直政は今川氏を滅した徳川家康を頼って仕官。数々の戦で武功を立て、徳川四天王の一人と呼ばれるまでになります。

徳川幕府を支えた大々名

慶長五年(1600)関ヶ原の戦いの後、井伊直政は近江国佐和山に18万石を与えられます。直政の死後、長男の直勝(直継)は彦根に築城しますが、病弱だったため幕命によって井伊宗家の座を弟の直孝に譲ります。直孝は彦根藩主となって30万石の譜代大名となります。直勝(直継)は父・直政の官名・兵部少輔を世襲して分家し、上野国安中藩3万石の藩主になりました。

井伊宗家彦根藩は5代6度に渡って大老職を出すなど譜代大名筆頭の家柄として栄えます。橘の家紋を彦根橘に変えたのもこの頃です。

武蔵七党、猪俣党の小野氏

平安時代の歌人・小野篁に始まるという小野氏は藤原家が台頭してくると朝廷での勢力を失い、地方に下向していく者が出てきます。その中に篁より 八代の孫で東国に下向した武蔵守孝泰という人物がいました。孝泰は武蔵国多摩郡横山に土着し、東国武士団・武蔵七党の横山党と猪俣党の祖となりました。家紋は「三ッ星」や「丸に橘」を使用していました。

小野氏といえば春日氏系の小野氏が知られていますが、小野の地名が全国に分布していることもあって、出自も家紋もさまざまな小野氏があります。

土佐の安芸氏

現在、日本で一番橘紋が多いのは高知県です。土佐国東部に栄えた安芸氏は壬申の乱で土佐に流された蘇我赤兄の子孫と伝わりますが、藤原家や橘氏などの異説も多く、安芸氏の本家は橘姓を称して橘紋を家紋としました。ただ「見聞緒家紋」という大名家の家紋を収集した書物にみえる安芸氏の定紋は「三つ割剣花菱」です。

戦国時代、安芸氏は長宗我部氏に敗れて滅亡。長宗我部氏は一族や多くの家臣に安芸氏の橘紋を与えたため、土佐国に橘紋の家紋が増えていきました。

橘を家紋とする苗字

「橘」の苗字は兵庫県が一番多く、橘紋を家紋とする家も多いと言われています。兵庫県といえば南北朝時代に播磨国を支配した大族・赤松氏。赤松氏自身は村上源氏の出自で家紋も「二引両に左三ッ巴」と橘紋ではありませんが、家臣には橘を家紋とする苗字が多いです。

これは播磨が田道間守にゆかりの地で、橘諸兄の橘氏とは別系統の田道間守の子孫が橘姓を名乗って播磨に住んでいたからと言われています。

中村

中村氏は、村が発展するに連れて分村や子村を作る元になった村のことをさして産まれた苗字です。

そしてその村のなかの家の位置などで、「上村」「下村」「中村」などと名付けられていきました。

家紋が橘の有名人

家紋が橘の有名人、偉人を集めてみました。こんな人が橘の家紋だったのか、と驚く人もいることでしょう。

赤松家の重臣 小寺氏

戦国時代、西播磨の国人として御着城を拠点とした小寺氏は播磨守護職・赤松氏と同族で戦国の名軍師・黒田官兵衛孝高の黒田氏の主家です。赤松氏と同じ一族ですが家紋は「橘に藤巴」という藤巴紋に三ッ橘紋を合せた家紋です。