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自分がない人の特徴・心理とその原因|自分がない人の悩みと克服方法

自分がない人とは?

自分がない人ってどんな人?

自分がない人とはどんな人でしょうか。

辞書通りの意味であるのならば、自分の意見を持っていない人です。言い換えてしまうと、主張がない、意見がない、意思がない、などと表現することも出来ます。

生活においては、何についても人に合わせている人を、自分のない人だと感じるのではないでしょうか?そういう人たちを見ていて、意思が無い人、つまらない人、なにか堪えている人、と感じることもあるでしょう。

また、無難なことしか言わない、同調ばかりしているので、良好な関係を築くのが困難であったり、場合によっては信用されないこともあります。

しかし、本当に自分がない、言うなれば主張も意見も意思もないと言えるのでしょうか?あなたが自分がないと感じていても、本当に何も考えず主張はないのでしょうか?見ていて、自分がないと感じる人は、本当に何も考えていない人なのでしょうか。

この記事では、自分がない人について解説していきます。

自分がない人は意見のない人?

自分がない人は意見はないのでしょうか。

その答えは、「言い換え」としても書いてしまっていますが、主張がない人です。何故主張がないのかは、これから解説していきますが、少なくとも、何も考えず何も感じないわけではありません。

極端な話をしてしまえば、お昼ご飯のメニューを決めることが出来なくて、人と同じものを食べる人であっても、道を歩く人を蹴飛ばせと言われて、はいそうですかと何も考えずそれに従い、蹴飛ばしてきて、その結果について、何も感じない人間は居ないでしょう。

このことから分かるように、自分がないと感じている人でも、自分が内容に見える人も、何も考えていないというわけではないのです。

自分がない人の特徴・心理

優柔不断で決められない

優柔不断とは、ぐずぐずして物事の決断が遅いという意味です。

自分がない人は、あれこれ悩むので一般的に悩むようなことではないことでも悩みがちです。例えば、昼食のメニューであっても、普通は適当に目に付くメニューなどおすすめなどを見て、ほとんど悩むことなく決めることが出来ると思います。

しかし、自分がない人はこういう場面でも大変悩んでしまいます。カレーライスもおいしそう、オムライスも食べたい、あっさりと冷やし中華にしようかな、定食もお得そうだ、などとうだうだと悩んでしまいがちです。

そして、他の人が何食べてるか聞こうかな?などと考えて見たりもしますが、その、他の人の助言を仰ぐかどうかすらも悩んで、自分の好きなものを食べようか、おすすめのものを教えてもらおうか、など悩むことがあります。

このように、あれもこれも欲しいく、物事の決定が苦手で優柔不断になりがちです。まれに、何も欲しくなくて決められない人もいるかもしれませんが、自分がない人というのは、何かを決定するのが苦手な場合が多いです。

主張せず無口

決定が出来ないのですから、当然のごとく無口です。

自分がある人であれば、自分がやりたいことがわかっているのでどんどん主張します。おなかがすいているのなら、おなかがすいていることを伝えますし、疲れているのなら疲れているといいます。

しかし、自分がない人というのは、発言をしていいのかも悩み、自分の主張が出来ず、周囲に気を使わせてしまうこともあります。人と居たいのに無口で気を使わせるタイプは厄介です。

周囲の人も、気を遣わなければならない相手より、何でも言ってくれる相手のほうが付き合っていて楽なため、結果的には、自分がない人というのは周囲と良好な関係を築けず、うまく友達を作れない場合が多々あります。

自発的に能動的に行動できない

自分がない人は、自分で決定するのが苦手なため、自分から行動することも苦手です。本人は何も考えていないわけではないのですが、何をすればいいのかを考えすぎてしまうため、極端な場合は、本当に細かな部分の決定まで指示しなければ動けないことも少なくは有りません。

手が開いて暇なときも何をすればいいか分からず、上司などの監督役に何をすればいいのかを聞きに行く決定も出来ずに、本当に、誰かに何かを言われるまで何もしていないという場合も有ります。

自分の体調にかかわる、空腹感ですらそのまま放置して、自分では誘ったりせず、お昼時に誰かが昼食に行くのを誘ってくれるのを待っている場合も有ります。

このように、自分がない人というのは、優柔不断とセットで積極的な行動が苦手な場合が多いです。

意見に流されやすい

自分がない人は、自分で決定することが苦手なので当然ですが、イエスマンになりがちです。

ですが、自らの決定なしにとりあえず頷いているばかりなので、この人は誰にでも適当に返事しているだけだなと思われやすく、さらには、どんな相手や意見にも頷いているので、他人に同調してばかりの八方美人だなと思われやすく、信用されることも有りません。

どんな意見にも頷いていることが分かれば、自分の知らないところでどんな意見に頷いているのか分かりません。この人は裏切っているのではないだろうか。なんて考えられてしまうのも当然です。

適当に頷いているというのはすぐに分かることなので、ちゃんと話を聞いていないと思われ不満を感じられたり、同調しかしないので軸がぶれていると思われいらいらもされます。

短い期間の上辺だけの付き合いであれば、そこまで見抜かれ自分がないことが露呈することは少ないため、気の合う人として付き合うことも出来ますが、自分がない人を含む人間関係が複雑になると、いとも簡単に、自分のないのと八方美人が露呈して、信用のならない人間へと変化してしまいます。

そういうこともあり、自分がない人というのは人間関係に問題を抱えやすくもあります。

保守的で変化を嫌う

政治的な立場としての保守的ではありません。言葉通りの意味です。

自分がないがゆえに、欲深く行動することも無く、目に見えて分かる非常識な行動もとりません。何かを決定することも無いため変化も起きませんし、変化して考えることが増えるのも望まないでしょう。

結果的に、自分がない人は静かでイエスマンであるがゆえに、上辺の付き合いだけなら世渡り上手。非常に受動的な人間では有りますが、意見に流されやすいため指示されたことはやり遂げる場合が多く、変化を嫌うために、多少のことは我慢しているように見えるため我慢強くおもわれやすいため、そこそこの信頼を手に入れ、上手く社会で生活を送ることが出来るタイプではあります。

しかし、プライベートにおいて深い関係になれば、自分のないのと八方美人な性格は簡単に露呈するため、人から信用はされず、信用できる友人も少ないことでしょう。

自分がない人の原因

なぜ自分をなくしてしまったのか?

子供を見ていれば、我侭だなと感じることはあっても、この子は自分がないなぁと感じることは極めて稀でしょう。つまり、ほとんどの人は元々自分がありますが、それをどこかで失った結果、自分を失ってしまったのです。

自分がない人が、自分をどの段階で失われたのかは分かりませんし、なぜ失ったかも分かりません。それらは、人それぞれの事情があるでしょう。自分がない行動の原因というものははっきりとしています。それは、誰にも嫌われたくない、誰とも争いたくない欲求でしょう。

何かを主張するということは、他の人と衝突したり嫌われたりすることもあるということです。ほとんどの人は、主張が衝突すれば解決しますし、どう思われようが自分は自分と考えたり、アドバイスがあれば受け取ることでしょう。

しかし、自分がない人というのはそれらを恐れます。

嫌われるかもしれないという不安

小さな子供を見ていると、たいていの場合はわがままなものです。これは、相手のことを考えていないためで、つまりは、まだまだ自分しか見えていないためです。

要求の押し付け合いというのは、自由を縄張りとした陣取り合戦とも考えることが出来て、自由な要求を相手に飲ませれば、自由は大きくなりますが相手の自由は小さくならざるを得ません。

当然ながら、相手も自分の自由が小さくなってしまうのはいやなので反発して、自分の自由を守ろうとしますし、そのために争いになってしまうこともあります。こういうことの繰り返しの中から、自分に許容できる部分を線引きしたり、相手の踏み越えてはいけない領域を理解して、相手を大切にすることを学んでゆきます。

しかし、自分の無い人というのはこの線引きが普通とは違います。相手に自分の領土に踏み込ませてでも、相手に嫌われたくない争いになりたくない、という欲求があります。

人を信用することが出来ない

普通に暮らしていた場合は、このように衝突などを繰り返しながら、自分と相手の両方を大切に出来る場所を探ってゆきます。それが出来るというのは、ある意味ではお互いの信用を疑っていないからです。

嫌われても一時的なものだとか、その意見が嫌いなんだな。という安心感から、色々言い合うことも出来ます。逆に普通の人であっても、初対面の相手とは丁寧に接すると思います。これは、まだまだ最低限の信頼しかないからです。自分が無い人というのは、様々な理由で人間を信用することが出来ません。この人間というのは自分がない人自分自身も含んでいます。

何か言えば即座にそのまま嫌われてしまうという不安感、見下されてしまうのではないかというプライド、嫌われた時に自分を疑い続けてしまう、こういった不安から、自分がない人というのは自分がもっとも許容できる選択の、自分を無くすという選択をしてしまいます。

そして自分のない人へ

自分を信頼できないために、何かを言われればすぐに真に受け、相手を信頼できないために、嫌われるかもしれない、傷つけられるかもしれない。そして、そこから導き出された無難な選択というのは自分をなくすことです。

主張しなければ嫌われないし見下されることもない。相手の言うことに従っていれば怒られないし争いになることもない。人というのは自分の許容できる範囲でしか自分の行動を許容できません。理性ともいえるかもしれませんが、自分がない人たちが許容できる行動は、自分を持たないことなので、自分を持とうとすればブレーキがかかります。

これらの結果として、自分がない人というのは意思が無いように見えますし、八方美人な性格となります。

自分がない人の悩み

人付き合いが上手く出来ない

自分がない人というのは、説明してきたとおり上手く人付き合いが出来ません。しかし、本当に人と付き合う気がないのならどう思われてもいいわけですから、何でも言いますし、そういう意味で付き合いづらい人間になります。

自分がない人は、嫌われたくない欲求があり、そのために色々な人に同調しますが、結果的にそのことが原因で信用を得ることが出来ません。

また、主張できないことで人に気を使わせてしまい、付き合っていて疲れる人と思われ、人から避けられがちにもなります。

やりたいことが見つからない

自分がない人というのは、様々な状況から自分の行動決定を人に任せてきました。その結果として、自分の目的も目標も自分で決めることが出来ません。やりたいことが、決定できずに目標を決定できないこともあります。

人生の目的や、将来設計が出来ないことで、自分が何者なのか分からなくなり、ますます自分を信じることが出来なくなることもあります。

虚無感に襲われる

虚無とは、この世に存在するすべてのものに意味を感じないということです。自分に自信がなく目的もなく、行動も他の人に決めてもらっているため、たとえ何かを成し遂げたとしても、それらに意味も達成感も感じることが出来ず、ひどい虚無感に襲われることがあります。

自分がない人の克服方法

他人は他人で自分は自分

他人は他人ですし、自分は自分です。何か言ってきたとしても、その人物が言った人の人生に責任は持ちません。また、行動した責任というのは行動した本人にかかります。

なにかを主張してけんかになったとしても、嫌われたというわけでは有りません。その主張の結果について、その人が何かを感じたというだけです。誰かに嫌われてしまったとしても、その人が嫌いになったというだけで、すべての人間に嫌われたわけでは有りません。

すべての人にすかれることは出来ませんし嫌われないことも出来ません。そもそも他人は他人です、すかれても嫌われても自分は自分ということを考えましょう。

嫌なことには嫌と主張しよう

嫌なことを嫌々やらされていても、好きなことを楽しんでいても、すごした時間というのは限られた人生の中の限られた時間です。

ならば、嫌なことには嫌と主張し自分の好きなことややりたいこと、それがないのであれば色々なものに触れて自分が何であったのかを感じることをおすすめします。色々なものに触れているうちに、自分がやりたかったことを思い出したり、自分のやりたいことが見つかることもあります。

ほかにも、嫌な言動に頷いていることで信用を失うこともあります。なので、嫌なことには嫌だと主張しましょう。

何でも頷いていては、嫌なことをやらされただけで達成感を得られなかったり、他の人にいいように使われてしまうだけです。

自分で決めよう

他人任せに物事を決定していては自分は確立できません。他人のコピーに成り下がってしまいます。簡単なところなら、昼食のメニューからでも自分で決めるようにしましょう。

自分を取り戻すのではなく自分を表に出そう

自分がない人というのは意思がない人だと考えていたのではないでしょうか?しかし、逆説的には意思が無い状態を選択し貫いている意思があるともいえます。

そして、その選択の裏には様々な思考もあります。自分を取り戻すのではなく、押し殺していた自分を表に出すことで、自分がない状態から抜け出せるのではと考えています。

この記事もひとつのヒントです。あまり真に受けすぎず、この記事を参考にして自分らしく生きていきましょう。

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