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ジブリの都市伝説(耳をすませば/千と千尋の神隠し/ハウル/トトロ/火垂るの墓/もののけ姫/ラピュタ/借りぐらしのアリエッティ/思い出のマーニーなど)

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都市伝説 / 2018年01月19日
ジブリの都市伝説(耳をすませば/千と千尋の神隠し/ハウル/トトロ/火垂るの墓/もののけ姫/ラピュタ/借りぐらしのアリエッティ/思い出のマーニーなど)

ジブリ映画の都市伝説

そもそも「都市伝説」って?

「都市伝説」とは、現実ではないお話です。まるで事実であるかのように、まことしやかに噂される根拠のないお話が「都市伝説」なのです。話の出所も不明であるのに、人から人へと伝えられ、それがまるで周知であるかのごとく、広く人口に膾炙しているお話、それが「都市伝説」の定義です。

昔話や旧い伝説には「おばけ話」「怖い話」が多いように、「都市伝説」にも恐怖を煽るもの、ぞっとするものがたいへん多いのが特徴です。誰しもが、「そんなものは信じてない」と言いながら、怖い話に耳を傾けてしまいます。語られ始めたら最後、歩みを止めて膝を乗り出して聞き入ってしまいます。

都市伝説は、「怖い話」

怪談の類を聞いてしまうと、夜、ひとりになってから思い出して、眠れなくなったりトイレに行けなくなったりした時に、「あぁ、聞かなきゃよかった…」と後悔してしまいます。なのに、「怖い話」には身を絡めとられてしまうような抗いがたい魅力があります。わからない世界だから、科学的に証明することが困難だから、だからこそ、あっても不思議はないとも思われ、心をすっかり奪われてしまいます。

暗闇がなくなり、不思議であったことが科学で解明され続け、妖怪が追い出されてしまった都市に住む人間であっても、恐怖を求める気持ちは相変わらずにあり、ふとした心の間隙に、都市伝説は忍び込み、増殖していきます。

現代における背筋の凍るほどの恐怖は、不可解な謎に満ちた事件から引き起こされてきます。恐怖の傾向は、心霊と犯罪に二分され、どちらからも「死」のにおいが漂ってきます。「死」は、人を手招きするように誘惑します。誘惑されたところに、「都市伝説」は萌芽し、繁茂します。

スタジオジブリ作品の特色

ジブリの都市伝説(耳をすませば/千と千尋の神隠し/ハウル/トトロ/火垂るの墓/もののけ姫/ラピュタ/借りぐらしのアリエッティ/思い出のマーニーなど)

スタジオ・ジブリの作品は、国民的アニメ映画と言っても過言ではありません。極上のエンターテインメントであり、深読みすればいくらでもできるので、観客を選びません。ただただ頭を空っぽにして楽しみたいと思っている人にも、深く社会を、人生を、世界を考えたいと思っている人にも、お薦めの映画としてジブリ映画が選ばれます。

ジブリ作品は、繰り返しの鑑賞に耐えうるものです。何度観ても飽きがこないのがジブリ映画です。宮崎監督が、DVDを買ったら一回だけ観てあとは外で遊ぶようにと苦言を呈するほど、夢中で再生してしまうのがジブリ映画の魔力です。鑑賞するごとに、ジブリ作品から新たな魅力や気づきを得ることができます。新たな発見に喜びを見出すことだきます。

ジブリ作品から生まれる都市伝説

ジブリ作品をはじめて観たときに疑問を感じた、違和感を抱いたりしたら、繰り返し観たくなります。何度も観るうちに更に謎が深まっていくのもジブリ映画の特色です。

多くの人に共有される謎の存在が、都市伝説を生み出します。薄い霧のように、世の中に広がった都市伝説に触れることで、謎が解けたように納得し、またジブリ映画を繰り返し観てしまいます。熟知して愛している作品の都市伝説に衝撃をもたらされ、都市伝説の強い刺激は、人を病みつきにしてしまいます。

ジブリ作品にまつわる都市伝説とはどういうものでしょうか。それは、公式発表でもなければ、スタッフの方の手記でもない、脚本や設定にも書かれているわけではないのに、公然とした事実のようになってしまっている所謂「裏設定」です。ジブリの関係者側が、否定の声明を出さねばならないほど、一人歩きしている都市伝説もあるほどです。スタジオジブリの作品には、監督、プロデューサー、脚本、美術などのスタッフさんによる逸話が多く、エピソードに事欠きません。

スピンオフ作品や、裏話、楽屋話など、ジブリ作品をより深く理解するための情報に溢れています。 けれども、都市伝説の定義は「事実ではないこと」です。秘話、裏話、豆知識、トリビアなどは含まれません。

都市伝説が生まれないジブリ作品

都市伝説が生まれたジブリ映画と、都市伝説を耳にしないジブリ映画は、どこが違うのでしょうか。ジブリ映画にまつわる都市伝説は、「実は、登場人物はみな死者である」や、「死後の話である」という類のものが多く存在します。ジブリ映画の中で、既に「死」が満ち満ちている作品の場合は、そこからは都市伝説は生まれません。「実は…」というおどろおどろしさがなくなってしまうからです。

都市伝説が生まれないジブリ作品例その1 風の谷のナウシカ

「風の谷のナウシカ」は、1984年公開の映画です。スタジオジブリは、「風の谷のナウシカ」を制作したトップクラフトの改組という形で設立されたので、この映画はジブリ作品と言っても問題ありません。「ジブリがいっぱいコレクション」にも収められています。

「風の谷のナウシカ」は、最終戦争後の世界を描いています。それまでの世界に君臨していた人類は、ほとんどが死に絶え、わずかな生存者も衰退しています。人類が築いた文明は滅び、大地は錆とセラミックの欠片に覆われ、大気は瘴気に満ち、海は猛毒を放ちます。王蟲というグロテスクな生き物が蔓延っています。

荒廃した世界の中で、人は敵国や、人の存在を脅かす「腐海」と戦い続けます。滅亡、死、争い、不気味な生き物で覆われたジブリ映画であるこの作品に、都市伝説が本作品以上の恐怖を与えることは不可能です。

ラストで、ヒロインのナウシカは、自己犠牲によって死んだ後に蘇ります。どんな都市伝説が生まれたところで、このジブリ映画には太刀打ちできません。

都市伝説が生まれないジブリ作品例その2 天空の城ラピュタ

1986年公開のジブリ映画「天空の城ラピュタ」は、壮大なロマン活劇です。

舞台の元になったのは、産業革命期19世紀後半のヨーロッパですが、「ラピュタ」は滅びたとは言え高度な科学文明を持ち、天空から世界を支配した巨大帝国という、現状を越えて遥か高みに飛翔するような設定です。

ヒロイン、シータは、襲撃されて飛行船から落下しても、「飛行石」を持っているので怪我さえしません。共に追っ手から逃げることになったパズーも、シータと一緒なら谷に落ちても死にません。「実はドーラ一家は死んでいた」やら「実はシータは死んでいた」など、誰かが流布しようとしても、都市伝説化しようがありません。ジブリ映画の壮大なファンタジー、「ラピュタ」には都市伝説が入り込む余地は皆無です。

都市伝説が生まれないジブリ作品例その3 火垂るの墓

1988年公開のジブリ映画「火垂るの墓」は、ジブリ作品としては珍しい、長編映画の同時上映でした。同時に上映された「となりのトトロ」のメイと、「火垂るの墓」の節子はふたりとも4歳。同じ4歳児の日々が、残酷なまでに異っていることに大きな衝撃を受けます。

原作は、故野坂昭如の実体験を下敷きにした同名小説です。ジブリの映画では、清太がストーリーテラーとなります。神戸の三ノ宮駅で清太が死亡し、駅員が清太が持っていたサクマドロップの缶を振りかぶって叢に投げ込むと、落ちた衝撃で缶の蓋が外れ、小さな白い骨がこぼれ出ます。そこから、ひと月前に死亡した節子が立ち上がり、二人は回想の旅に出かけるのです。

戦争が激しくなる前の穏やかな日々を過ぎ、神戸の空襲で家も母も失った兄妹が、死を迎えるまでの無惨な日々を辿ります。焼け出され、母を失い、親戚に引き取られるも神戸と西宮では温度差があり、二人きりで生きようとして叶わず、滅んでいく日々の記憶です。

霊となった二人は、その残酷さと永遠に向き合い続けるのです。死んでから後も惨たらしい日々なのです。ジブリ映画には珍しく、ファンタジーもカタルシスもありません。やるせなさと憤りと大きな哀しみがあります。死者が死に満ちた酷い日々を語る、そこにどんな都市伝説も入り込めるわけがありません。

都市伝説が生まれないジブリ作品その4 平成狸合戦ぽんぽこ

1994年公開のジブリ映画「平成狸合戦ぽんぽこ」は、多摩丘陵を開発し巨大な団地群を建設する人間に、棲み処を奪われた狸たちが戦いを挑む物語です。

狸たちは「化け学」を使って、人間たちを怖がらせます。全編化け物のオンパレード。都市伝説も裸足で逃げ出します。人間に敗れて死んだ狸は、生きていたときのデフォルメされた漫画チックなかわいらしいタヌキではなく、リアリティのある写実的な狸の骸として描かれます。

人が自然に対して為す行いのむごたらしさが、ジブリ映画ではよく描かれますが、これほどユーモラスな戦いは類を見ません。だからこそ敗れゆく狸たちが哀切極まるのです。

化け物と、狸の死と、丘陵地の死。ここにも都市伝説が出て来れる場はありません。

都市伝説が生まれないジブリ作品例その5 もののけ姫

1997年公開のジブリ映画「もののけ姫」は、室町戦国時代の日本を舞台に、神々と人間の戦いを描いたものです。凄惨な戦闘シーンや人体損壊などグロテスクな描写が多く、それは、それまでのジブリ映画にはなかったものです。

室町からそれに続く戦国時代、その後関ケ原に至るまで、武士たちの血塗られた時代が続きます。武士のみならず、農民も巻き添えを食います。

ジブリ映画の「もののけ姫」では、武士同士が切り結んでいるだけでなく、タタラ場衆が神々と戦い、武士と戦い、多くの血が流れます。

白拍子であり、倭寇の頭目に売られた過去があるエボシ御前は、売られた女性たちや、ハンセン病により隔離され差別された人々を引き取り仕事を与えています。社会の裏と切り結び、人生を切り拓こうとする天晴な女性ですが、山を侵食し神殺しを企てます。

社会の裏側で生きてきた人々と、凄惨に滅んでいく山の神々。どんな都市伝説も太刀打ちできません。

都市伝説が生まれないジブリ作品例その6 外国の児童文学が原作であるもの

2004年公開のジブリ映画「ハウルの動く城」、2010年公開のジブリ映画「借りぐらしのアリエッティ」は、どちらの原作もイギリスの児童文学です。

外国の文学を読み解くには、その国々の文化や習俗に深い造詣がなければなりません。ジブリの映画の中で表現されているシーンの裏に、幾重もの「深読みのネタ」が存在するのです。その文化圏で暮らす人々に共有されている教養や知識を熟知することなく、都市伝説が生まれることは難しいのです。

都市伝説を生んだジブリ作品

都市伝説が生まれ、その伝説が人の間で説得力を持つのは、現実の生活と地続きの世界が舞台であることが必要です。親近感を覚える設定は感情移入がしやすく、「ほのぼのとした懐かしい世界の裏には恐怖が隠されていた」という意外性は、心を鷲掴みにします。

作品の醸すイメージやメッセージと、「裏設定」という名で流布する都市伝説が呼び起こす恐怖とのギャップが、聞く人を虜にしてしまうのです。

戦いが多く描かれ、その底には深い思想が脈打っているのがジブリ映画です。そして、画面はとことん明るく美しく、背景も音楽も見事で、キャラクター造形は愛らしいのがジブリ映画です。ジブリ映画が生み出した都市伝説を探ります。

となりのトトロ(1988年ジブリ作品)

1988年公開のジブリ映画「となりのトトロ」は、都市伝説の宝庫です。この都市伝説を踏まえて、目を皿のようにしてジブリ映画の「となりのトトロ」を観直してみると、「巷を賑わす都市伝説は、事実ではない」とはっきりわかります。「事実ではない」ことが都市伝説の大前提ですから、「ジブリの『となりのトトロ』都市伝説」は、都市伝説の中の都市伝説、正に「都市伝説の王道」です。

「都市伝説」である、とわかっていても尚、トトロの都市伝説が耳目に触れるたびに、恐怖のどん底に落とし込まれていきます。ジブリ映画「となりのトトロ」の「都市伝説」を挙げていきます。

トトロは死神

「となりのトトロ」の都市伝説の基本設定は、トトロが死神であるということです。ジブリのコーポレートキャラクターのトトロは、少女たちを、死に至らしめます。

メイは池に落ちて死んだ

都市伝説は、死神トトロがメイを死に誘ったとします。迷子になったメイは、神池で溺死するのです。サツキらが必死の捜索をしている時にはもう、神池の底です。見つかったサンダルを見せられたサツキは、サンダルはメイのものではないと言いますが、それは思い違いでした。池の名が「神池」というのが暗示です。

都市伝説はさらに追い打ちをかけ、メイが座っていたお地蔵様の台座には、「メイ」と彫ってあるというのです。

サツキも死んでしまった

都市伝説では、ネコバスも地獄からの使いです。ネコバスは、死者を黄泉の国に連れて行く役目をトトロから仰せつかります。ネコバスに乗り込んだ時に、サツキも死んでしまいます。死者となったサツキは、彷徨っているメイの魂を迎えに行くのです。

ネコバスが病院についても、ふたりは死者ですから、お母さんには会えません。高い木からお母さんを見守り、トウモロコシを届けます。

エンドロール背景に流れるエピソードはふたりの生前の回想であると、都市伝説は伝えます。ふたりには影がないのです。「となりのトトロ」は、お化け屋敷に引っ越してきてしまったサツキとメイが辿る、哀しい運命のお話だったということです。

「狭山事件」がモチーフ

最も怖い都市伝説は、スタジオジブリが「となりのトトロ」を「狭山事件」をモチーフに制作した、というものです。狭山事件とは、1963年5月1日に埼玉県狭山市で発生した殺人事件です。高校生の少女が行方不明になり、脅迫状が届きます。少女の姉が犯人の要求した金額の偽造紙幣を持って犯人と接触しますが、警察は取り逃がしてしまいます。5月4日に少女の無惨な遺体が発見されました。

この都市伝説は、以下を根拠としています。

サツキとメイのお母さんが入院している「七国山病院」は、狭山丘陵にあった「八国山病院」がモデルです。サツキとメイは「松郷」に住んでおり、松郷は所沢にあります。トトロの名は、「所沢の隣」に由来しています。

サツキとメイの名は、狭山事件発生の「5月」からとられています。サツキとメイは12歳と4歳で、ふたりの年齢を足すと、被害に遭った少女の年齢になります。

犯人は脅迫状に、こどもは西武園の池の中で死んでいると書き、実際に発見されたのは、雑木林から麦畑に出たところの農道でした。メイが死んでしまったのは池で、ネコバスに乗ったサツキがメイを探し当てたのは農道でした。

妹を案じた姉が錯乱状態になり、「猫のお化けを見た」「大きな狸に遭った」と叫んだという伝聞もあります。

ジブリが陰惨な事件を題材にしたのは、逮捕された犯人は冤罪であり、この背景には社会問題が潜んでいるのでそれを告発するためであると、都市伝説は語ります。

ネコバスの前世

死者を黄泉の国へ運ぶネコバスは、「もののけ姫」の「乙事主」だったのです。乙事主は、猪神一族の長でありましたが、人間の所為で山を追われタタリ神へと変貌して死にます。彼を助けようとするサンをも溶かしてしまいそうな勢いでした。

都市伝説は、人間を恨みながら死んだ乙事主が、人間を死に至らしめて地獄へ運ぶネコバスに転生してしまったと流布します。

耳をすませば(1995年ジブリ作品)

「耳をすませば」の都市伝説は、謎解きに近いものです。「裏設定」として妥当である都市伝説になっています。少し物悲しくもあります。

天沢聖司は超能力を持つストーカー

ジブリ作品に登場するヒーローの中でも高い人気を誇る、天沢聖司。彼は、ヒロイン月島雫にストーキングをしていました。

雫は、図書室通いが日課の読書家です。彼女が借りる本のカードには、必ず天沢聖司の名が書かれていたので、雫は彼が気になって仕方がなくなります。雫が、名前しか知らない人に思いを募らせていくと思いきや、じつは、これは聖司に仕組まれていたことだったのです。

聖司は、「俺、図書カードで、ずーっと前から雫に気がついてたんだ。図書館で何度もすれ違ったの、知らないだろう?」「となりの席に座ったこともあるんだぞ」「俺、お前より先に図書カードに名前書くため、ずいぶん、本、読んだんだからな」なんて言っています。

雫が読むであろう本を先回りして借りることができるほど、彼女の読書の傾向を熟知しているとは、読心術の使い手なのかもしれません。バイオリン制作の勉強をしつつも大量の読書をこなせるのだから、超能力が備わっていると言えるでしょう。

優れた能力を持つ人間にストーキングされるなんて、ちょっと背筋に冷たいものが走ります。雫の「コンクリートロード」の草稿が聖司の手に渡ったのも、ストーキングの効力だったのですね。偶然ではなかったわけです。「コンクリートロード」の草稿を手にした聖司の表情は、ストーカーであると思えば納得です。

徹夜で小説を仕上げた後に眠りこけた雫が、目を覚ました明け方、窓の外には聖司がいます。どれくらい待っていたのでしょうか。雫が起き上がって窓を開けるかどうかは、不確実極まりないことです。でも、長い間のストーカー生活、そんなことには慣れていたのでしょう。

雫はルイーゼの生まれ変わり

天沢聖司のおじいさん、西司朗がドイツに留学中に見つけた猫の置物、バロン。バロンには、修理に出している恋人がいたので、引き取りにはふたり(?)一緒が条件だったのですが、司朗は戦争で帰国を余儀なくされ、バロンの恋人の引き取りは恋人に頼み、バロンだけを連れて帰国します。結局、バロンも司朗も恋人に会うことは叶わず、歳月を経ています。

雫は、そのいきさつを知らないまま、バロンを主人公にした小説を書き始めます。雫が紡いだ物語は、司朗の体験そのものでした。雫が物語の中でバロンの恋人に与えた名前は、ルイーゼ。司朗の恋人の名もルイーゼでした。

雫は妄想の中でルイーゼになり切り、バロンと共に飛翔します。この偶然の産物は、雫がルイーゼの生まれ変わりであることを物語っています。

「耳すま症候群」にご注意

天沢聖司の人物造形は、イケメンで、才気に溢れた努力家、という現実ではあり得ないものです。胡散臭いストーカーめいたところはあるけれど、好きな女の子を一途に思い、将来の約束までして旅立ってしまうとは、女子の憧れを一身に引き受けてしまいます。

聖司の生き方に触発されて、雫も真っ直ぐに夢を目指します。現実に覆いかぶさる進路やテストも障壁にはなりません。あたたかな理解者に囲まれ、正に人生の王道を往く雫です。

あまりにも現実から飛翔し過ぎている物語ですが、これは多摩の団地群に住んでいるような女の子が夢を見るなら、と考えたジブリからの贈り物ですから、自分自身の日々と比べるということは無意味です。この作品を鑑賞後に落ち込んでしまう中学生が多いそうですが、ファンタジーと現実を混同してはいけません。お話はお話として楽しみましょう。

天沢聖司は帰らない

「お前のあの歌、歌ってがんばるからな」と言って、クレモーナへ行った聖司は、その後帰国することはありません。「あの歌」には、「帰りたい、帰れない、さよなら、カントリーロード」と歌われているからです。

「地球屋」は幽霊屋敷

雫が猫のムーンに導かれるように訪れた「地球屋」は、本当は雑木林が生い茂る空き地なのです。かつての「地球屋」に住み、集っていた人々は、戦争で亡くなってしまいました。廃屋となった地球屋は取り壊され、夜な夜な亡霊たちが集まるのです。まるで、「耳なし芳一」の平家の人々や、映画「雨月物語」のようです。

バンドのメンバーは、西さん、南さん、北さんで、希望の日が昇る「東」さんがいません。西さんの孫は天沢ですから、「天」に住んでいるのです。

雫の小説は、西司朗が霊力で書かせました。開店していないことが多いのも頷けます。天沢聖司は永遠に15歳なので、イタリアから帰ってはきません。雫は彼のことを忘れていき、そのうち、地球屋を見つけることもできなくなるのです。

ホーホケキョとなりの山田くん(1999年ジブリ作品)

山田一家は東京大空襲で全滅した

1999年公開のジブリ映画「ホーホケキョとなりの山田くん」は、いさいひさいちの新聞4コマ漫画が原作です。淡いパステルがかかった画面は、一家の辛辣なセリフとは裏腹に幻想的です。

幻想的なのは、もう、今は亡き一家の戦前の暮らしだからなのです。山田くん一家は、永遠に過去を生きるのです。これも哀しみを誘う都市伝説です。

千と千尋の神隠し(2001年ジブリ作品)

ジブリ映画らしい、エネルギーに満ちた冒険活劇の「千と千尋の神隠し」の都市伝説は、やはり何やら物悲しいものです。物悲しくて薄ら寒くなってしまう、納得させられる都市伝説です。

一家三人は、既に死んでいた

2001年公開のジブリ映画「千と千尋の神隠し」の冒頭部、ヒロイン千尋とその両親は早くも死んでしまいます。一家三人は、都会から引っ越し先へと車で向かっていました。山へ入ってから道がわからなくなり、千尋の父は、「この車は四駆だぞ!」と急に車のスピードを上げます。家族の制止も聞かずに乱暴に車を走らせた挙句、事故を起こして一家は全員死亡する、というのが都市伝説の基本設定です。

暴走した車が停止した門は、黄泉の国の入り口でした。山に入った時に千尋が目にした石の祠は、一家を死に誘っていたのでした。

両親は神々の食事を貪ってしまったので神々の食用豚となりますが、千尋はからだが透けはじめ、存在の消滅へと向かいます。

乗客は自殺者

千尋とカオナシは、海原電鉄の電車に乗って銭婆の家へ向かいます。半透明の黒い乗客たちは、自殺者です。既に事故死している千尋と人間ではないカオナシには、乗車の資格があります。人間たちは、死者である場合のみ、乗って行けるのです。途中の停車駅で降りていく乗客は、生還した者たちです。

「火垂るの墓」の節子

海原電鉄沼原駅のホームに、夏の陽射しに照らされて、おかっぱ頭の少女が立っています。彼女は、ジブリの1988年公開作品「火垂るの墓」の節子です。節子は、終戦後間もなく、横穴防空壕で餓死しています。あの夏の日に死んだ節子は、後から来る兄の清太を待っています。清太は節子の死からひと月遅れて、三ノ宮駅構内で餓死するのです。

都市伝説が都市伝説ではなかったジブリ作品

崖の上のポニョ(2008年ジブリ作品)

2008年公開のジブリ映画、「崖の上のポニョ」は、寓話的要素を含んだおとぎ話です。ファンタジーと言ってもよく、文学的でもあり、SFチックでもあります。あらゆるジャンルにまたがった絵画的な作品です。

スタジオジブリの映画は、「ジャンルはジブリ」と断言するより他がない作品ばかりですが、とりわけこの「崖の上のポニョ」は、ジブリである所以の要素が結集した映画となっています。

人間に憧れ、魔法を駆使して人間となる「金魚姫」ポニョの物語は、アンデルセンの「人魚姫」が悲劇へと向かうのとは異なり、世界中のすべてが大団円を迎える楽しいジブリ映画です。すべての観客を幸せにします。

監督がコメントしているように「5歳児でもわかる」ストーリーですが、深い世界観に裏打ちされたジブリの本懐ともいえる作品です。

「崖の上のポニョ」の都市伝説

「崖の上のポニョ」の都市伝説は、死後の世界を描いているというものです。

その理由としてまず挙げられるのが、町は津波で水没したのに人々は元気にそこで暮らしているということです。車椅子で移動するしかなかった老人たちが生き生きと走り、デボン紀の古生物は悠々と泳ぎ回ります。町を沈めている海水は、美しく澄んでいます。この世のものではないのです。水上には大正時代の夫婦がいます。夫婦は赤ん坊が心配で成仏できないのです。

ポニョは父から「ブリュンヒルデ」と呼ばれていました。「ブリュンヒルデ」とは、北欧神話に登場するワルキューレの一人です。ワルキューレとは、戦場において死を定め、勝敗を決める半神です。ブリュンヒルデは、戦死した兵士の魂を、オーディンという戦争と死の神が住む場所へ連れて行きます。半神とは、神と人との間のこどもで、ポニョは半神です。だから、人々を死後の世界に導くのだと、都市伝説は言います。

宗介とポニョが通るトンネルは、あの世とこの世のつなぎ目であったのだと都市伝説は語ります。だから、途中でポニョは半魚人に戻ってしまうのです。

都市伝説ではなく、そういう物語。

「崖の上のポニョ」は、実際、そういうお話なのです。あちら側とこちら側の境目は溶解して、一度滅びたあとで世界は生まれ変わり、あちらもこちらもみんな一緒に生きるのです。

音楽担当の久石譲さんも、死後の世界や輪廻をどう表現するかで悩まれたそうです。

作中至る所にちりばめられた謎は、それぞれの解釈に委ねられているともいえますが、神話が下敷きになっており、民俗学や神話学からのアプローチも可能です。

神話とは、話の出所は不明のまま、永きに渡り語り継がれてきた物語です。荒唐無稽な印象が強く、メッセージを読み取ることができません。この特徴は、「都市伝説」と同じものです。「崖の下のポニョ」は神話ですから、「崖の下のポニョ」にまつわる都市伝説は、「都市伝説ではなかった」のです。

都市伝説から、ジブリ映画の魅力を再発見

都市伝説に触れると、映画本編を再度観たくなります。繰り返し鑑賞されるために、都市伝説が存在しているようです。

魅力あるジブリ映画の都市伝説もまた、人を惹きつけるものです。新しい解釈に出会うことで、自分の感性も新しくなります。ジブリ映画本編も、都市伝説も、どちらもいろいろな解釈が可能です。魂は、いつでも、新しい旅を始めることができるのです。

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