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禅問答の意味・例|禅問答に関する本の紹介・禅問答の中の猫

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言葉の意味 / 2018年01月19日
禅問答の意味・例|禅問答に関する本の紹介・禅問答の中の猫

禅問答ってなに?

「禅問答」という言葉を聞いたことがありますか?はじめて聞いた!という方も少なくないのではないでしょうか。世の中には未知の言葉が溢れていますが、禅問答について詳しく知っている人は少ないでしょう。

では、今回は「禅問答」について、その意味や例など、項目にわけて詳しく紹介していきます。

仏の智慧や悟りのヒント

「禅問答」という言葉について、どのような印象があるでしょう?「第三者からするとわけが分からない会話」と思っているのではないでしょうか。実は仏教、それも禅宗において仏道の悟りに通ずる大事な物なのです。弟子が師匠に質問し、帰ってくる答えは大抵意味不明な物ですが、仏道の極意、真理や悟りに通ずるものが隠されています。

禅宗の極意は、座禅を組んで瞑想すれば得られるような物ではありません。何気ない日常の中でふっと悟るケースもままあるようで、禅問答にまつわる物語には、本当にごく些細なことで悟りに至ったパターンが多々あります。禅問答は分かりやすい方法で、悟りに至る道を教えてくれるのです。

禅問答を多く行った、中国禅宗の第六祖慧能

禅宗では言葉や文字はあくまで「手段の一つ」でしかなく、それをこねくり回すと却って真の悟りへはたどり着けない、という考えがあるのです。

さて、禅問答の元となった禅宗ですが、これは開祖達磨大師から、直々に後継者と定められた慧可を第二祖とし、以降大三祖、四祖と伝道師が続いてきた禅宗です。第六祖に当たる慧能は貧しいが為にロクに勉学を学ぶことができず、第五祖弘忍の下に行っても弟子としてではなく下働きとして僧侶としての修行どころか時の勉強すらさせてもらえませんでした。

これには慧能が中国の南方から来た「南蛮者」と呼ばれ蔑視される身であったことも関係しています。といって、弘忍が師匠として劣っていたわけではなく、彼が優れている、第六祖となる素質があると見抜いたからこそ敢えて継がせないと見せかける意味もありました。

実際、修行を受けていないにもかかわらず第六祖の最有力候補とされていた先に悟りを得ることに成功します。その証が、他者に壁に書いてもらった詩でした。弟子たちは感心しましたが、弘忍は「大した物ではない」と言い消させます。

夜中にこっそり慧能を呼び出し、『金剛経』や禅宗の極意を聞かせ、後継者の印である衣を持たせて夜中の内に逃がすのでした。南の者に衣を継がせたと分かれば弟子たちが怒り、騒ぎになると踏んだためです。

案の定、学もない下働きの者に大事な衣と後継者の座を渡したと知り、弟子たちは激怒して慧能を追うのでした。15年間の潜伏期間を経て、ようやく認められて正式に仏門入りが叶いました。

僧侶になっても慧能は相変わらず字を知らないままでしたが、多くの高僧を育てるほどの大人物となりました。彼に関する禅問答も数多くあります。

禅の極意

一言で言えば無の境地です。「分かりません!」とすでに匙を投げる人もいるかもしれませんが、禅問答をいくらか覗いて見れば、何となく見えてくるかもしれません。

「無」とは言っても、「煩悩を失くそう!ひたすら座禅座禅!」とただ雑念を払おうとするのもいいとは言えないのです。

禅問答の世界を覗けば、見えてくるのは平常心、日常生活の中に悟りのヒントがある、余計な物をとり払うとの考えが見えてくるようです。

色々な禅問答を見てみる

禅問答について少し分かってきたところで、いろいろな禅問答をみてみましょう。

月を示す

無尽蔵尼という尼僧が慧能に教えを乞いました。彼女は『涅槃経』という経文について研究していましたが、もう少しの所で理解、悟りに至らなかったようです。そこで、慧能にお知恵を拝借となります。慧能は言いました。

「私は字が読めないんだ。あなたが読んでくれれば、ある程度意を汲み取って教えてあげるくらいはできると思う」無尽蔵尼は驚き、「字が読めなくても悟れるのですか」と返します。これに対し、慧能は何でもないように応えました。「文字は文字。悟りとは基本的に関係ないよ」と、月を示しました。

慧能は続けます。「悟り、真理というのはね。丁度あの月のような物なんだよ。で、私が月を示している。この指が文字だと考えてはどうかな。指は月を示すことはで来ても、月そのものではないだろう?それに必ずしも指で示すことだってないんだ」

この禅問答の中で、慧能が言いたかったのは、そのまま「字が読めなくても悟れる」「経文を読むばかりが悟りの道ではない」ということのようです。むしろ、経文の研究ばかりしているとそこにかかれていることにとらわれてしまう、別のアプローチをしなさいとの意味もあるでしょう。

このように、目的塔が分かっていれば、意外と禅問答も分かりやすいと思いませんか?慧能がちゃんと悟っていたからこそ、この禅問答できちんと例えを示して悟る為の道しるべとなったのです。

言葉で語らず

言葉を必要としない禅問答の例はまだあります。

ある人物が琴を弾きました。美しい音色を奏で、弾き終わった所で聞き手に感想を求めます。聞き手は「この曲にはどんな意味が込められているのか」と尋ね返しました。考察好きな人は昔からいたようです。弾き手は黙ってまた最初から引き直し、一言。「この曲の意味は今弾いた通りです。それ以上でもそれ以下でもありません」

現代では「この曲に込められているのは若者の持つ煩悶とそれから来る行動、それを見守る老人の歯がゆさとがどうのこうの」とつらつら述べる人もいるかもしれませんが、禅問答の世界ではそのようなことはありません。曲に込められた意味は、曲でしか表せないのです。この禅問答のたとえ話は、そのように語っています。

溢れるほどに茶を注ぐ

ある所に学者がおりました。この人物が、南隠と言う高僧に、禅の教えを乞いに行った時のことです。「お茶をどうぞ」と言いながら、南隠はお茶を注ぎました。この時、注ぎ過ぎて、お茶は溢れてしまいましたが、それでもまだ注ぎ続けでした。

「こぼれてますよ!」との言葉に、南隠は答えます。「あんたの頭には、この茶碗と一緒だよ。余計な考えや知識でいっぱいだ。この茶碗を空にするように、余計な知識を捨ててから質問に来なさい」

ここで言うお茶は先入観などの象徴です。「そう言った物のせいで歩い見目が曇っている、それでは仏の道は理解できない」との意味を持ちます。こちらも、分かりやすい禅問答ですね。

火の神が来て火を求める

中国の禅僧に、玄則と言う人物がいました。この人が悟りを得るため向かったのは高僧、青峯の下です。「仏となるにはどうしたらよいのでしょうか」と尋ねると、青峯は言いました。「火の神が来て、火を求めた」これに、玄則はピーンと来て「よっしゃ、悟った!」と大喜びです。

そんな彼を、法眼という別の高僧が呼び止めました。「悟りを得たのか。一体どのようなことだ」玄則は有頂天で内容を伝えます。「青峯和尚に言われたのです。『火の神が来て、火を求めた』と。火が仏を表し、火の神が私を表しているのです。つまり、火の神と火はイコールだから、改めて質問することはないということです」

返って来た答えは「違うよ。それじゃお前はまだ悟ったとは言えないな」というものでした。「ではどういう意味なのですか」と尋ねると、法眼は言いました「火の神が来て火を求めた」。さっきと同じです。しかし、今度こそ玄則は悟りを得ました。「そういうことか!」と。常人には意味不明な、禅問答の典型です。

どういうことかと言うと、玄則の言葉通りになります。ただ方法が違っただけでした。慧能の話と同じことです。仏道では「悟りは言葉で表せるものではない。直感で得る物」「万物は皆は同じ」という教えがありました。つまりは、言葉で説明できる代物ではないということです。

それを懇切丁寧に他者に説明しているようではまだ悟れていない、でも惜しい所まで行っているということで、同じ答えが返り、一人の求道者を悟りへと導くことができました。第三者からするとわけがわからないながら、本人たちには意味が通っているのが禅問答なのです。

実行は意外と難しい

中国の詩人、白楽天が禅宗の僧侶、烏窠(ちょうか)和尚に禅について尋ねました。「禅宗で修行して悟るにはどうしたらいいでしょうか」返ってきた答えは「いいことはやる。悪いことはやらない」の一言でした。

「そんなの三歳児だって分かっていることですよ」と白楽天が答えるや、烏窠和尚は返しました。「そうだね。でも三歳児にだってわかってることを実行できない大人はいくらでもいる」これまた真実です。そう、理論が分かっていても実行できなければ意味がありません。意外とやるのは難しいのです。

俱胝和尚の指

俱胝という僧侶がまだ修行中の頃です。伊織の中で座禅を組んでいると、縫合を持った尼僧が現れて、傘を被り三回回りました。「ハイ、何か感想は?」「!?」突然の尼僧の奇行と問いに、俱胝は戸惑います。何も答えられなかった為に尼僧はそのままいずこかへ去って行きました。
「あの傘はどういうこと!?ワシはどうすればよかったの!?」と悩み、遂には山を下りようとします。「明日の朝には出発しよう」と眠っていると、別の僧侶が現れました。「何か悩んでいるようだね。話してごらん」と言われて、俱胝は昼に起きたことを話します。

するとその僧侶は「これが答えだよ」と人差し指を突き出しました。禅問答、というよりも行動です。しかし、俱胝にはそれがただの指には思えませんでした。ただの指なのに、人々の苦しむ姿や、滝の流れ落ちる渓谷、大きな山がそこにはあったのです。

俱胝は悟りに至りました。ただの指でも、色々に変化するこの体験は、「すべては千変万化する。しかし、元は一つ」という真理を表していたわけです。禅問答は時に、言葉ではなく行動で示すことがあります。

切られた指

この話には続きがあります。俱胝和尚はこの一見以降、仏道の答えはこれだ、と求道者に親指を立てるようになるのですが、弟子の僧侶はいつもそれを見ていました。

師匠が留守の時、弟子は代わりに指を立てて求道者に見せ、帰って来た師匠にそのことを告げます。しかし、「これは仏道ではない!」と指を切られてしまいました。「何をするんですか!」と抗議する弟子に対し、「仏道とは何だ」と尋ね、互いに親指を立て合います。しかし、弟子の指は切られてもうありません。ある指と、ない指を見て、弟子は悟りました。

彼は師匠の上っ面を撫でていただけでした。悟りという物は、ただ見かけだけ真似をするのではなく、その人物が、実際に体験して得る者だということを、弟子はいたい想いをして悟ったわけです。

猫を殺さずに済むには

このような話もあります。南泉禅院という寺院には東西にお堂があり、それぞれの僧侶が一匹の猫のことで争っていました。「ウチの猫だ!」としてです。南泉和尚は、問題の猫を取り上げ、刀を手に言い放ちます。「お前たち。仏道の理に適う言葉を言って見よ」誰も何も言えず、和尚は猫を殺してしまいました。

その後、趙州和尚が寺にやってきます。南泉和尚はことの顛末を話し、「お前さんだったらどうした?」と尋ねました。趙州和尚は自分の頭に草履を乗せ、去って行ったということです。南泉和尚は「お前がいたら、猫は死なずに済んだかもしれない」と言ったのです。

禅問答の典型、「どういうこと!?」のお話です。この禅問答の解釈に関しては諸説あるようですが、重要なのは猫が東西のお堂、どちらの物か?弟子たちはどんな気の利いたことを言えばよかったのか?ではないように思われます。

「ええと」と迷っていたために猫は殺されたわけで、弟子たちは猫をどこか安全な場所に逃がすか、或いは南泉和尚の持っていた刀を奪うべきでした。それも、咄嗟にです。

そもそも、何ゆえに猫を奪い合ったのかについての詳しい記述はなく、たとえではないか、との説もあります。猫は飽くまで迷いの象徴に過ぎません。つまり、弟子たちは猫という迷いに関して気の効いたことを言ったりやったりしようとしたため、それを斬られたという解釈もあります。

重要なのは、迷いを持たず、煩悩を見せずに行動することのようです。趙州和尚はその点が分かっていたために、無意識の行動が取れました。「どうしようどうしようなんて迷ってるようじゃ、駄目だ」ということらしいのです。

靴を頭に置いたのは、本末転倒の意味、猫の頭において、ガードにすればいいなど色々な説があります。何にせよ、迷わずすぱっと解決すればよかったのです。

実際に読めば色々面白い、禅問答の世界

漫画形式で分かりやすく、禅問答や禅の思想、禅宗を伝えた人物のことを描いています。蔡志忠(さい・しちゅう)氏は他にも孔子や老荘思想などをコミカライズしており、訳と監修も和田氏、野末氏のよるものです。可愛い絵柄も相まってサクサクと読めることでしょう。

各禅問答の説話にはそれぞれ解説がついていて、合わせて読めば、禅問答や禅宗の世界も分かるのではないでしょうか。

禅問答について、興味深くなってきましたか?まだまだ分かりにくいという方は、分かりやすく紹介されている本を見てみるとそのおもしろさに気付けるかもしれません。

『マンガ 禅の思想』蔡志忠著/和田武訳/野末陳平監修/三浦徹明解説

禅問答が教えてくれること

世間には十人十色の考えがあります。そして今やインターネットで情報が氾濫し、悟りを開いていない僧侶のごとく煩悩や迷いが生じやすい時代です。

禅問答は基本的には仏教の教えから来ていますが、日常を大切にする禅宗のこと、一般人でも生きやすいような考えを提示してくれます。

月、真理を見つけるのに指、つまり言葉で指示さなくてもいいのです。日常の中ではっと悟ること、身近に、迷いや悩みを解決してくれるものがあると、禅問答は教えてくれているのではないでしょうか。

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