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「平将門の首塚」とは?祟りや言い伝え・神田明神との関係・都市伝説

Author nopic iconmaburutoleo
都市伝説 / 2018年01月19日
「平将門の首塚」とは?祟りや言い伝え・神田明神との関係・都市伝説

平将門の首塚とは?

平将門と言う人間がいたことも、首塚がある事も知らないと言う人が意外と多いようです。随分昔平安時代のお話ですから、知らない人が多いのも仕方がないのかもしれません。平将門は、日本三大怨霊の一人と言われている武将ですし自分を天皇だと名乗った人でもあります。

平将門は死してまだ成仏できずに、なぜ怨念として祟る事になったのか?この現代で本当に祟りは有るのか?と思う人もいるでしょう。 しかし、平将門の首塚の祟りと思われるいくつかの出来事が実際に起こっています。平将門の首塚は都内にいくつかありますけれども、一番有名で祟りを起こしているのが千代田区にある三井物産の東側に建っている首塚です。

京都で晒された将門の首が、故郷をめがけて飛んで撃ち落とされた地の一つと言われています。首が飛ぶとは尋常では考えられない事ですが、将門の持つ無念の力と念の強さでしょうか…平将門とはどんな人だったのでしょうか?

平将門ってどんな人?

平将門は、逆賊の汚名を持っていますが反面、庶民の味方義賊として讃えられています。平将門の首塚の怨霊としての顔と、守護神としての一面を持つ平将門とはいったいどんな人物だったのでしょうか。

平将門の生まれは、死亡時に38歳(満37歳)と言われていますから、この年齢が正しければ延喜3(903)年生まれとなります。諸説あるので、実際は不明と言う事です。生まれもやはり同じで、どこで生まれたのかはっきりした文献は残っていない様です。

父の平良将が領地としていたのが、下総の国佐倉(千葉県佐倉市)ですからこの地の近くである事は確かなようです。平家の出ですから、天皇家の血を受け継いでいる事も後の将門の乱に繋がってしまう要因なのかもしれません。但し、官位は低かったと言われています。

平将門の首塚への行き方

平将門の首塚に、怖いもの見たさにいってみたいと思う方平将門の首塚へのアクセス教えます。東京駅の丸の内北口から、真っ直ぐ大手町タワー連絡口の交差点まで行ってください。交差点を、神田橋方面へ左折して真っ直ぐ行くと右側に平将門の首塚が有ります。

もう一つのルートからだと、都営地下鉄大手町駅から、C5出入口から東へ40mです。分りやすいので、道に迷う事も無いと思いますからお参りしてみてください。

以下が住所になります。

〒100-0005  
東京都千代田区大手町1-2-1 平将門の首塚

怨霊将門は平家一門の闘いから発祥

平将門はなぜ、怨霊となって今の世まで祟るのか?志半ばで亡くなった武将達は、他にも沢山います。怨念の強さと深さは、思いの強さと深さからなっていると言われています。また平将門を慕い、同情する人も多かったのかもしれません。

平将門が新しい世の中に変えてくれるのではないか、自分達の為に戦ってくれ常に弱い者の味方だったと考えていたから、庶民は平将門に対して同情する思いが強かったのでしょう。平将門の首塚の祟りは、一つや二つではありませんいくつかありますからそれぞれにまとめてご紹介します。まずは、怨霊になったきっかけ平将門の乱からご説明していきます。

一族の争い

「平将門の首塚」とは?祟りや言い伝え・神田明神との関係・都市伝説

平将門にとって、父が亡くなった事が運命の歯車がくるって滅亡まで行ってしまったのではないでしょうか。叔父達から仕掛けられた戦い、この争いに勝った事が始まりでした。叔父たちによる、財産の搾取があったと朝廷も認めた事で将門の武勇も都で評判になっていったようです。

いつの時代でもある事ですが、武家社会がまだきちんと確立されていなかった時代でもあり家督争いです。なかなかあきらめられる事でもありませんから、その後も必要に命を狙われ続け、今度は朝廷に将門が訴えた事で反将門の一味が捕獲され処断されました。

中心人物でもあった叔父平良兼がこの時に亡くなった事でいちよう終息します。ただ、将門にとってライバルでもある平貞盛を取り逃がしてしまったことが後になったこれが、将門の不運の一つとして後の将門の乱へと繋がっていきます。

怨霊誕生のきっかけとなった将門の乱

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一族の争いを武力で解決した事で、将門の武勇が広まり武家の間で一目置かれるようになってきます。そうなると、争いの仲裁や助太刀をお願いされたりしてきます。武蔵野国の争いが起こり、将門は自ら調停に乗り出しこの時の当事者の一人、源経基が朝廷に平将門謀反と報告。また朝廷に復帰していた、ライバル関係の平貞盛がある事ない事を朝廷に訴えたことが将門の乱になっていったのです。

当時は天皇の名の元に、姻戚関係にあった藤原が政治を行っていましたが庶民はあまり良く思っていなかった。役人の間でも、自分の為に私服を肥やす人がいつの時代でもいるものです。平将門とは庶民からしたら、藤原の政治に反旗を掲げて戦いを挑んだ義賊と考えていた様です。

平将門天皇になる

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その後お尋ね者の藤原玄明が頼って来たので、調停に向かったが国司に平貞盛が居た事で争う事となり、平貞盛を撃破し関東8カ国を平定し手中に納め新天皇をこの時に名乗る。将門の乱のこれが始まりです。平将門は頼られたら断れない、売られたケンカは買う性格のようでしたから、これは運命のいたずらか、将門自身の命運だったのかもしれません。

「朝廷対平将門の戦い」は将門の快進撃で始まりますが、突然風の向きが変わり将門の馬の足が止まった一瞬で将門を矢が射抜き、将門の最後はあっけない幕切れとなりました。

新天皇を名乗って、僅か二ヶ月で終了してしまいました。今でも将門に人気があるのは、自分の為ではなく庶民の為の戦いをしてくれたからなのかもしれません。

平将門の首塚の祟りや言い伝え

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これは言い伝えですが、将門の首塚が建っている千代田区の場所は、昔は芝崎村と言われていました。将門の首が落ちた時、大地は鳴動して太陽も光を失い闇夜だったと伝わっています。村人が恐れ、塚を建て手厚く葬ったけれども災いが続き祟られていたと伝えられています。

真経上人がこの地を訪れ、荒れ放題になっていた平将門の首塚を修復し法名を贈り供養したところ、祟りが収まったと言われています。近くに有ったこれもまた荒れ放題の神社を、修復し村の鎮護としたと伝わっています。この神社が、神田明神です今は場所が変わっていますが本当は将門の首塚の近くにあったのです。


平将門の首塚の祟り 将門の首

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平将門の首は、塩漬けにされ京に送られ晒されました。ですが腐る事も無く目を見開き、3日目に切り離された自分の胴体を求めて東へ飛び去り首を打ち落とすために矢を射るも首はちぎれてバラバラになって落ちて行き、最後に落ちたのが千代田区の平将門の首塚の地だったと言う事です。

将門の首が、「胴体と繋がってもう一度一戦交えん」と言ったとも言われています。凄まじいまでの思いと言えばいいのか、言い伝えの枠を出ない伝承なのか今よりも平安時代は不思議な事が沢山あった時代の様です。しかし本当に首は関東まで飛んだのか?はたまた誰かが盗んで持ち帰った後に、埋めたのではないかと推測されています。

平将門の首塚の祟り 旧大蔵省

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平将門の首塚の祟りが本領発揮するのが、大正時代に起こった関東大震災で首塚が損壊した事で塚の調査をしたさい、盗掘されていて何も残っていな事からこの地を整地して大蔵省の仮庁舎を建築した事です。仮庁舎が完成した直後から、役人が足をけがするようになり大蔵大臣が突然倒れ意識不明になった後亡くなる事態が起こりました。

これだけで終わらないのが、祟りの怖さです合わせて14名が死亡しています。政務次官をはじめ、多数のけが人がでたことから誰言う問わなしに「平将門の首塚を壊しその上に仮庁舎を建てたから将門の祟りでは」と言う、噂がたったこともあって1928年仮庁舎を壊し平将門の首塚を復活させ御霊を鎮めるための盛大な慰霊祭を行っています。

平将門の首塚の祟り 官庁大火

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昭和15年に、落雷によって当時の大蔵省が全焼しています。通信省に落ちた落雷による火災が飛び火して燃えてしまったと言う事なのです。当日は、20か所に落雷があったのですが、平将門の首塚のこれも祟りなのだと当時は本当に怖がられた様です。平将門の首塚の前で、盛大な鎮魂慰霊祭を行い祟りを鎮めようともしたようです。古来より落雷イコール祟りと言う図式は他の怨霊のお話しにもよく出てきます。本当に、人の思いとはすごい物があるのですこのエネルギーは負のパワーと言う事でしょうか。

将門の首塚の祟り GHQ

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GHQ(アメリカの進駐軍)が、第二次世界大戦後平将門の首塚の辺りを駐車場にする為に、整地していた時の事です。平将門の首塚の辺りに、ブルドーザーが近づいた時に突然ブルドーザーが横転し操縦していた日本人の作業員が死亡。もう一人死亡者が出た事と、怪我人も出ている事それと地元の人達の陳情もあり計画は中止されました。平将門の首塚の祟りは、誰に対しても厳しいですね安らかにはまだ眠れないのですね。

平将門の首塚の祟り 背を向ける

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平将門の首塚の祟りは、今も続いているようです。周りにはビルが立ち並び一見何事もなかったように見えます。ですが、上から見下ろしてはいけないと言う事で平将門の首塚側には、窓を設けない設計で建て物は建てられています。また、平将門の首塚にお尻を向けてはいけないと言われていて、机の配置にも気を使って首塚にはお尻を向けないようにしているのです。病気になるとか、業績が落ちるとか言われています。

まだまだ続いている祟り

高度成長期は、呪いや祟りなどこの世に有るわけがないそんな雰囲気の時代だったように思います。平将門の首塚の土地を一部を残し国が銀行に売却し、参道の一部に建った銀行では首塚に面した部屋の行員に病人が多く出たといいます。

人によっては、参道や植え込みに何やら嫌な雰囲気が有ると言う人もいるのです。実はこの地は、平将門の首塚と言うだけではなく伊達騒動の時にここで亡くなった人がいるのです。平将門の首塚が、災いを呼んだわけではないと思いますがちょっと怖いお話です。

将門の首塚にあるカエル

「平将門の首塚」とは?祟りや言い伝え・神田明神との関係・都市伝説

平将門の首塚に行かれるとわかるのですが、大小のカエルの置物が両脇に置かれています。なぜだか分りますか、将門の首は京都から飛んで帰ってきた(カエル)と言う事からカエルの置物が置かれているのです。いつの時代からか、官庁の役人は海外赴任もあるので平将門の首塚にあやかって無事に日本へ戻って来れるように、海外に行く前には必ずお参りしていから行かれる人が多いそうです。

パワースポットとしての平将門の首塚

平将門の首塚が、パワースポットと言われていること知っていましたか?サラリーマンの方にはリストラや左遷もありますから心のよりどころとして平将門の首塚があるのかもしれません。お参りすると出世して戻って来れると言われている様です。首塚だけに、これ以上首は斬られる事がないからとか首を守る首塚だから、ご利益があると信じているようです。

将門の首塚のご利益

「平将門の首塚」とは?祟りや言い伝え・神田明神との関係・都市伝説

サラリーマンにとってのご利益が、左遷されて飛ばされても戻って来れると言う事ですが。行方不明になっている人や子供、また誘拐された子供が無事に帰って来る様にと祈願すると戻って来れるとも言われています。強い武将でもありますから、勝負運が強くなるとも言われています。平将門の首塚は怨念のパワーが強いだけに、また頼られたら嫌と言わない性格もあって強い力を頂ける頼もしい武将でもあるのです。但し、怨霊ですから怒らせてはいけません失礼のないようにお参りください。

平将門の首塚と神田明神の関係

「平将門の首塚」とは?祟りや言い伝え・神田明神との関係・都市伝説

神田明神は、東京を守る鎮撫の神様として親しまれています。元々は、平将門の首塚の近くにあった神社でしたが江戸時代初期に、国造りの為に徳川家康が場所を変えて、今の場所に移設されました。神田明神の本殿には、平将門の体が奉祀されています。

神田の名の由来は、将門のからだが神田の基になったとも言われています。身体を求めて江戸へ帰って来た平将門の首ですから、お参りに行くのでしたら神田明神へ行ってから平将門の首塚へ行かれると、ご利益もさることながら将門公が喜ぶのではないでしょうか。ちなみに神田明神の三之宮のご祭神は、平将門命として平将門が祀られています。

平将門の首塚と成田山

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神田明神と相反するのが、成田山新勝寺と言うことになります。平将門に対して朝廷から怨敵退治の祈願を全国の神社仏閣へ伝達されました。今の成田山新勝寺が建っている場所で、21日間の護摩が焚かれ丁度満願21日目に、平将門の馬の足を止め風向きを逆に変え将門の眉間に矢を射ぬかれたとされています。時の朝廷から、許しを頂き成田山新勝寺は護摩壇の跡地に建っています。皇居の方を向き表鬼門を塞ぐように建てたと伝わっています。どこまでも、体制を守る立場を変える事なくいまに至っているのです。

神田明神と成田山新勝寺

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成田山新勝寺の起源が、平将門の怨敵退治の護摩ですから、神田明神の氏子や関連の神社の氏子将門の子孫からは未だに恨まれています。彼らは、成田山新勝寺をお参りする事はありません。神田明神をお参りするのでしたら、成田山新勝寺をお参りしないことをおすすめします。

平将門の首塚の祟りに合うとか、ご利益を貰えないと言われています。毎年NHKの大河ドラマの主演の役者さんは、節分の豆まきに必ず成田山新勝寺に行きます。ですが、平将門を扱った大河ドラマの年だけは祟りを恐れて、辞退したという事です。

江戸時代の神田明神の氏子さん達は、南天の箸は絶対に使わなかった、と言われています。それは平将門の眉間を射抜いた矢は南天の枝で出来た、今成田山新勝寺が建っている地で焚かれた護摩により祈願がなされた御神矢だったからです。

平将門の首塚以外に塚はあるの?

塚と言う形ではないのですが、祀っている神社は存在します。筑土神社もその一つで、平将門の首桶や将門の肖像画などが宝物として納められていたのですが、戦火で焼失してしまって今は写真でしか見る事が出来ません。筑土神社は、6度移動を繰り返し今の場所に落ち着きました。

拝殿の装飾や絵馬には将門の家紋の巴紋を使っています。日本武道館の氏神様なので武道をやっている人や、勝負師の人にとってはご利益をもたらしてくれる有りがたい神様なのです。その他にも、六か所に将門関連の神社があります。

平将門が関係している神社

1,鳥越神社、平将門の首が飛び越えたからこの名前が付いたと言われているのが鳥越神社です。2,将門公の、鎧が埋められている神社として有名なのがその名の通り鎧神社。3,将門の兜が埋められている事から、兜神社と名前が付いた兜神社があり。4,将門公の呪いを祀っていると言う凄い神社が水稲荷神社です元々は平将門を調伏する祈願を行った神社の一つです。平将門の首塚の祟りを上手い様に抑える為に配置された神社かもしれません。

将門の祟りをも利用した徳川家康

「平将門の首塚」とは?祟りや言い伝え・神田明神との関係・都市伝説

鳥越神社と、兜神社、平将門の首塚、神田明神、筑土神社や鎧神社そして水稲荷神社、これらをつなぐと何が出来ると思いますか?北斗七星です。

北斗七星は、妙見さんとして古来より信仰を集めている神様です。北斗七星の力と、平将門の首塚の力を使って徳川家康が江戸を作った時、結界を張ったと言われています。家康は、平将門の首塚の怨年の力をうまく使って霊的な結界を張っていたのです。

表鬼門と裏鬼門も神社とお寺で二重に用心深く、江戸の繁栄と徳川家の繁栄の両方を守るための物だったのです。家康と言う人物の凄い所なのかもしれませんが、家康の片腕に凄い陰陽師が居たからこその出来である、とも言えます。

怨霊封じの山手線

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徳川家康が作った結界が平将門の怨年を利用した北斗七星ならば徳川家を倒して出来た明治政府が作った結界も有ります。それが、都市伝説なのかもしれませんけれども山手線と言われています。兜神社と鎧神社の間を、山手線が通っていますからまた首を切断したと言う事のようです。将門の力と言うのか、将門の祟りを明治政府は恐れたのでしょう。中央線も結界破りの為と言われていますけれど今でも事故が多いのは平将門の首塚の祟りも有るのでしょうか。

平将門怨念封じの結界

鉄は霊力を遮断すると言われています、平将門の首塚の怨念や祟り呪いのたぐいを封じ込める事が必要だったのかもしれません。しかし、この事で平将門の首塚の祟りが本当にあった証明になる訳ではありません。平将門の首塚の祟りは、権力者にとって厄介でありよほど怖い事だったのかも知れません。権力者の為の歴史が、表の歴史であるなら権力者にとって都合の悪い事は裏の歴史と言う事になるのでしょうか。明治時代に、江戸時代の結界が破られたと言われる話があるのも事実のようです。

平将門の首塚は伝説となる

「平将門の首塚」とは?祟りや言い伝え・神田明神との関係・都市伝説

いかがでしたでしょうか。今回は平将門の首塚について、ご紹介しました。平将門の首塚の祟りは、実際に起こった時代の人から見たら、本当に有ったことだと思います。次々に、原因不明の謎の死を遂げて行った旧大蔵省の人達がいたことも事実です。今でも、平将門の首塚の周りの企業の方達からしたら現在進行形の出来事だと感じました。

しかし、その力を恐れながらも平将門の首塚を守っているのが、平将門の首塚の周辺の企業のボランティアの人達です。平将門の名義で口座を作り「史跡将門保存会」を設立して隣接する平将門の首塚の清掃や整備を行って守っています。恐れるだけでは共存出来ませんから、これも未来志向と言う事でしょうか。平将門の首塚の祟りや言い伝えは、これからも伝説として後々までも残って行くのだと思います。

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