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金屏風事件の概要・関連人物と行動|中森/近藤/ジャニーズ

Author nopic icongoodnews Nara
重大事件 / 2018年01月19日
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金屏風事件とは

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80年代を代表する人気アイドルが世間を賑わせた「金屏風事件」をご存知でしょうか。歴史は繰り返すといいますが、ある組織において公共の電波を利用した伝統的ともいえる「公開処刑」「公開パワハラ」と呼ばれるやり方がふたたび繰り返されたとして、今ネット上で話題になっています。

2016年暮れに解散した国民的人気グループ「SMAP」の一連の騒動が社会現象といわれるほど盛り上がったことで、ネットでは過去に中森明菜が生放送で謝罪した「金屏風事件」を思い出したと語る40代から50代の人々の書き込みが数多く見られるようになりました。

およそ30年ぶりに蒸し返された「金屏風事件」は、大手芸能プロダクションとして数多くの人気男性タレントを擁するジャニーズ事務所の主導によって開かれた記者会見です。ジャニーズ事務所は金屏風事件で視聴者やファンにどんな印象を与え、どんな目的を達成したのでしょうか。

大晦日の抜き打ち記者会見

金屏風事件と呼ばれる記者会見は、年の瀬も差し迫った1989年(昭和64年)の12月31日に開かれました。しばらくマスコミの前に姿を見せていなかった人気女性歌手の中森明菜(当時24歳)が、約半年ぶりにNHKで年末恒例の人気歌番組「紅白歌合戦」の裏番組で、異例の生放送謝罪会見に姿を現したのです。

一年の締めくくりとなる大晦日の夜に開かれたことで、視聴者の記憶に強烈な印象を残した独特の記者会見は、テーブルをきれいな花で飾った金屏風の間で行われたことから「金屏風事件」と呼ばれます。華やかな芸能界の裏事情を凝縮したような「胸糞悪いエピソード」として、金屏風事件は今もファンの間で語り継がれています。

SMAP謝罪会見

2016年1月18日、フジテレビで放映された人気バラエティ番組「SMAP×SMAP」の中で、一部が生放送に変更されてメンバーの意思表明と謝罪が述べられました。事務所内のゴタゴタでグループ解散のうわさが流れ、世間を騒がせたことへの謝罪という名目でしたが、事務所ではなくアイドルタレントが直に謝罪を口にする光景には独特の緊張感と違和感が漂っていました。この時の異様な空気感が、金屏風事件によく似ているのです。

人気グループの解散騒動という暗い話題に追い打ちを掛けるように、葬儀の参列者さながらのお仕着せ黒スーツに身を包んだSMAPのメンバーたちは、妙に緊張した表情で場を仕切る1名を除く全員が死んだような眼をして反省の弁を述べました。「何があっても前進します」などの思わせぶりな台詞も、事の重大さを演出しているように感じられました。

30年前の金屏風事件の時とは異なり、SNSの普及によって情報共有が簡単になった一般視聴者の目は、この出来事を冷めた目で見守っていました。金屏風事件に続いて気持ちの悪い謝罪シーンを見せられたファンの間では「ジャニーズ事務所はもう終わった」と囁く声や、ファンが愛したタレントをなぶりものにする事務所への怒りの声も上がっています。

アイドル全盛期の80年代

金屏風事件に話を戻せば、今や「懐メロ」の域に入った1980年代の歌謡シーンを象徴するかのような出来事が、金屏風事件でした。この時代の日本経済は国際競争力の強化によって対米輸出が急増し、日本は世界最大の貿易黒字国として知られるようになっていました。

では金屏風事件の頃の音楽業界はどんな雰囲気だったでしょう。

80年代の巨星が誕生

金屏風事件が起きた80年代、テレビ業界では山口百恵やキャンディーズ、ピンク・レディーなどの70年代アイドルが解散や引退で次々と姿を消したのち、1978年には久米宏と黒柳徹子がMCを務めた伝説的人気歌番組「ザ・ベストテン」の放送がスタート。タレント黄金期と呼ばれた80年の始まりを告げるアイドルとして「元祖ぶりっ子アイドル」石野真子がデビューしました。

続いて1980年に「裸足の季節」で松田聖子がデビューし、金屏風事件の中森明菜はその2年後にデビューしました。この時代は、薬師丸ひろ子や原田知世、菊池桃子のように映画女優としてデビューしたアイドルが多いのも特徴で、堀ちえみや中山美穂、南野陽子などテレビドラマから生まれたアイドルも華やかな時代でした。

アイドルブームが最盛期を迎えた85年頃には、今も不倫騒動などでマスコミを賑わせている斉藤由紀や荻野目洋子がデビューする一方、初期からブームを牽引しつづけてきた松田聖子が俳優の神田正輝と結婚し、かつて工藤静香が所属した「おニャン子クラブ」のようなユニット型アイドル時代へとブームが移行します。

「花の82年組」

そんなアイドル全盛期にあってひときわ高い人気を誇ったのが、ドラマ「スチュワーデス物語」の独特な演技で当時話題になったアイドルの堀ちえみ、ポップなアイドル像で数々のヒット曲を飛ばした小泉今日子、そして金屏風事件の当事者である実力派歌手の中森明菜で、「花の82年組」と呼ばれました。

中でも金屏風事件の当事者だった中森明菜は、伝説の歌手・山口百恵の後継者として松田聖子と人気を二分するアイドルで、「聖子派・明菜派」という派閥風の表現もあったように、互いにライバルとして位置付けられていました。双璧を成した2大アイドルは、ファンも互いにアンチとして中が悪かったものでした。

ほかにも、雑誌「Seventeen」のモデルだった歌舞伎俳優の中村橋之助夫人の三田寛子や、今では当たり前の帰国子女系アイドル早見優、「永遠の16歳」として何かと話題の松本伊代など、息の長いタレント活動で親しまれているのも82年組のアイドルの特徴のひとつです。

金屏風事件の概要

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NHKの紅白歌合戦と同時刻に始まった金屏風事件の記者会見では、7月11日に自殺未遂を図って以来マスコミから遠ざかっていた歌手の中森明菜と、そんな中森の「友人」という立場で出席したジャニーズ事務所の歌手・近藤真彦が、金屏風の前に鎮座する姿が映し出されました。

結婚の報告と目された金屏風事件

当時、ファン公認で交際中だったふたりが慶事用の金屏風の前で記者会見を開くということで、いよいよ結婚報告との見方も多かった金屏風事件ですが、ふたを開けてみるとおめでたい話は一切なく、中森が一連の自殺未遂事件をひたすら謝罪し、近藤真彦は今後の目標や抱負を語るという不可解な内容でした。

金屏風事件が年末になった理由については、中森自身がワーナーパイオニア社長に「ぜひ今年中に謝罪したい」「元気になった姿を皆さんに見ていただきたい」と無理を言ってお願いしたと述べています。また、ジャニーズ事務所の幹部であるメリー喜多川は、「近藤さんはまったく関係ありません」と書かれたわび状を中森から受け取ったと語りました。

金屏風事件として芸能界の歴史に残る記者会見の動画は、今も不鮮明ながら一部のサイトで観ることができますが、こちらまで心細く悲しくなってしまう内容の会見です。金屏風事件の閲覧にはやや注意が必要です。

中森明菜

金屏風事件の中森明菜は、かつて日本テレビで放映され、数々の人気タレントを輩出していた人気オーディション番組「スター誕生!」の常連出場者でした。司会は坂本九です。

16歳でグランプリに輝き、1982年にファーストシングル「スローモーション」でレコードデビューしました。

番組史上最高のスター

オーディション時代から独特の存在感を放っていた中森は、当時の審査員だった音楽家の松田トシから目の敵にされ、幾度となく理不尽な評価を受けて落選しながらも、1981年に本選まで勝ち残った伝説の歌姫です。当時の映像を見ると、同じ本選のステージに立った弾けんばかりに明るい小泉今日子との対比が印象的です。

3度目のステージで山口百恵の「夢先案内人」を見事に歌い上げ、約1名を除く審査員から高得点を獲得し、番組史上初の高得点を記録しました。11社からのスカウトを受けた中森は、金屏風事件で移籍することになる芸能事務所「研音」、レコード会社「ワーナーパイオニア」と契約しました。歌手になりたい一心で、ひたむきに研究を重ねて勝ち取った栄冠でした。

泣いても不思議と涙が出ない「ぶりっ子」の松田聖子に比べ、思わずもらい泣きせずにはいられないほど悲しそうに泣く中森明菜ですが、審査員の「期待しているよ。がんばるんだよ。」の言葉にも感極まって泣いていた姿も印象的でした。金屏風事件では流せなかった、たくさんの涙を予見するかのような号泣でした。

研音ビルを建てたヒットメーカー

1982年9月にセカンドシングル「少女A」で初めて人気歌番組「夜のヒットスタジオ」に出演し、以来ヒット曲を記録し続けた中森明菜は、当時からダンスや衣装など、自己をトータルコーディネートでプロデュースする数少ないアイドル歌手でした。「森アスナ」というセンスのない芸名も「両親からもらった名前で頑張りたい」との理由から拒否しています。

1982年発売の「スローモーション」を皮切りに、研音では54枚のシングルと27枚のアルバム、22本のビデオアルバムなどを残した稀代の人気タレントで、当時の「音研」社長は中森明菜について、デビュー当時からカリスマ性があり、金屏風事件のほか、マネージャーが何人も変わるトラブルメーカーでもあったと語っています。

1981年(昭和56年)に堀江淳が歌った「メモリーグラス」以来、目立つヒットに恵まれなかった研音ですが、中森明菜の大ヒットによって頭角を現すようになり、マネジメント会社としての基盤を固めることができました。金屏風事件で中森が去った1980年代後半からは俳優部門も充実し、今やその地位は確固たるものになっています。

金屏風事件での中森明菜

中森明菜はデビュー以来所属していた研音を辞め、金屏風事件の3日前にあたる12月28日に新会社「コレクション」を設立していました。中森自身も金屏風事件でも語っているように、前事務所とは金銭のトラブルで関係にひびが入っていたようで、金屏風事件の会見会場に関係者の姿はありませんでした。

噂によれば、自殺未遂事件が近藤の自宅マンションだったことから近藤のマネージャーが浴室で血を流して倒れている中森を発見し、ジャニーズ事務所が研音よりも先に搬送先の病院で中森と接触しています。これらを踏まえ、改めて金屏風事件の映像を見ると、含みを持たせた中森のコメントが意味するところが見えてきます。

このとき面会謝絶で研音の関係者も立ち入りを許されていませんでしたが、ジャニーズ事務所は近藤と中森を別れさせるためにまず中森の弱体化を図って虚偽の情報を流し、それを信じた中森が事務所と距離を置くようになったのです。

事務所との決別

金屏風事件の記者会見でも、取材陣からの「自殺未遂の理由は何か」との質問に対し、短い時間では説明できない辛いことだったと前置きしたのち、「仕事をしていくうえで、一番信頼するべき人たちを信頼することができなくなってしまった」と語り、これからは信用できるスタッフと仕事ができると話を続けました。

さらに金屏風事件での中森は、近藤に対しては感謝してもしきれないと心情を吐露しました。内心を押し殺したような声から、言うに言えない深い事情を察したファンや視聴者も多かったのではないでしょうか。結婚どころか、うすら寒い孤独感を肌で感じる冷たい空気が漂う。金屏風事件は、そんな悲しくて息の詰まりそうな記者会見でした。

金屏風事件の関連人物と行動

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金屏風事件と小杉理宇造

SMAPの解散騒動で注目された音楽プロデューサーの小杉理宇造(こすぎりゅうぞう)は、ジャニーズ事務所顧問やジャニーズ・エンタテイメントの代表取締役社長を兼任する実業家でもあります。1960年代には春城伸彦(はるきのぶひこ)という芸名でムードコーラスグループを結成し、不遇の下積み時代を過ごしました。

単身渡米して短期留学したのち、1970年代に入ると得意の語学を生かして音楽出版社やRCAレコードで活躍し、RCA時代に山下達郎や桑名正博、近藤真彦など、当時ブームだったタレントのレコーディングを手がけました。ジャニー喜多川とはこの頃からの関係で、現在はジャニーズの音楽アドバイザーも務めています。

1982年に33歳の若さでRCAレコードの部下を連れてレコード会社を設立した小杉は、のちにワーナー・ミュージック・グループの傘下に入り、1995年にはワーナーミュージック・ジャパンの代表取締役会長に就任しています。この小杉理宇造という人物こそ、金屏風事件とSMAPの解散劇を陰で操った黒幕だと噂されています。

金屏風事件とメリー喜多川

金屏風事件の首謀者とされるメリー喜多川(きたがわ)は、ジャニーズ事務所の取締役副社長で、戦後間もなく駐留軍の慰問公演で通訳を務めたという芸能プロモーターです。「ジャニーさん」ことジャニーズ事務所の代表取締役社長・ジャニー喜多川は実弟にあたります。2016年にはSMAPの解散によって、晴れの「ゲス・オブ・ザ・イヤー」に選ばれました。

SMAPに喪服とも見えるスーツを着せ、生放送で謝罪させたといわれるメリー喜多川は、金屏風事件でも中森明菜を事務所から離反させるための画策をしたといわれています。SMAPを育てたマネージャーに、自身の後継者である藤島ジュリー景子のポストを脅かされると考えたメリー喜多川が、後味の悪いSMAP解散の元凶だというのは有名な話です。

30年前の金屏風事件に続き、インターネットがこれだけ普及した現在にあって、国民的アイドルを公開パワハラに処す悪趣味は、多くのSMAPファンや中森明菜ファンの反感を買っています。

近藤真彦

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金屏風事件のもう一人の主役は、メリー喜多川副社長が雑誌インタビューで「うちのトップ」と宣言したジャニーズ事務所の最年長タレントで、「ジャニーズの長男坊」と呼ばれている近藤真彦です。私生活では金屏風事件から5年後の1994年に一般女性と結婚し、2007年には男児が誕生しています。

ジャニー喜多川の誕生パーティーで上座に座った小学生を「生意気だ」と指摘した元SMAPの中居正広が、「俺の子だ」と引っ叩かれたエピソードはSMAPファンのあいだでは有名で、それを聞いた中居が「挨拶が遅くなりました」と土下座をせんばかりに挨拶したということです。

事務所の危機を救ったタレント

現在は株式会社エムケイカンパニーの代表取締役社長を務める実業家でもある「マッチさん」こと近藤真彦は、まだ中学生だった1977年にジャニーズ事務所に入所し、田原俊彦らと「たのきんトリオ」で売り出しました。フォーリーブスや郷ひろみ、川崎麻世に続く80年代のアイドルで、中森の相手役としては「軽い」という印象のキャラでした。

金屏風事件で批判の対象となり、視聴者からはすっかり忘れ去られていた元アイドルですが、デビュー35周年の節目だった2015年の年末には紅白で唐突にトリを務めるなど、どこか不自然な露出が目立つことから事務所による「ゴリ押し」との声も多く聞かれます。

多くのタレントが事務所の待遇面で不服を訴えるのに対し、近藤真彦は異議を唱えなかったというのも、メリー喜多川の寵愛を受けるに至った理由のひとつだといわれています。そんな近藤のプロモーションを手がけて大ヒットさせたのが、RCAレコードの元社員で金屏風事件にも深くかかわったとされる、前述の小杉理宇造という人物です。

レーシングチーム

金屏風事件の当事者だった近藤真彦は、レーシングチーム「KONDO・Racing」のチームオーナーであり、監督とドライバーも兼ねたマルチタレントです。1984年の富士フレッシュマンレースに参戦した頃は歌手としてはすでに落ち目であり、中森との格差やタレントドライバーとしての活動を揶揄されるなど、周囲からは冷やかな目で見られていました。

カーレースには莫大な費用が掛かることから、中森を金蔓にして金屏風事件で捨てたという言い方をされることもありますが、元レーシングドライバー星野一義の指導の下、ニッサン シルビアでスキルを磨き、国内有数のドライバーとして知られるまでになりました。

ル・マン24時間をはじめ、フォーミュラー・ニッポンやGT選手権で戦うレーサーへと成長した近藤がF3000まで上がることができたのは、ジャニーズ事務所の芸能人としてのポジションや潤沢な資金があったためとも言われますが、そのドライブテクニックが趣味の範囲を超えていることは確かなようです。

そのほかの「マッチさん伝説」

近藤真彦といえば、金屏風事件と同じくらい印象的だったのが1987年に起きた未解決事件「遺骨盗難事件」です。1986年に交通事故で他界した近藤の実母・美恵子さん(享年43歳)の遺骨が盗まれ、レコード大賞の出席を辞退せよという脅迫がありました。

事件は未解決のままですが、近藤はこの件で父親に対し、自分が芸能タレントという仕事に就いたばかりに申しわけないと土下座したと伝えられました。犯人は金屏風事件に怒った中森ファンとの人説もささやかれましたが、真相は不明です。

また、同じジャニーズ事務所のタレント「TOKIO」の松岡昌宏によれば、矢沢永吉ファンとしても知られる近藤真彦が楽曲オファーを入れた際、矢沢氏は近藤真彦の活躍ぶりを認め、最高の曲を送りたいと語ったものの、「ただごめんね、最高の曲ができたら僕が歌いたいよね」と、楽曲提供は絶対にあり得ないとも受け取れるロジックできっぱりと断られています。

金屏風事件での近藤真彦

金屏風事件の記者会見で途中から会場入りした近藤は、深々と頭を下げる中森の姿にも表情を変えず、「会場に来る予定はなかったが、中森と社長が自宅に挨拶に来てくれた」ために出席したなどと高い位置から語りましたが、視聴者の目に「部外者アピール」と映りました。金屏風事件の不愉快さの多くを占めるのが、この時の近藤の言動です。

「まず喜ばしいことは」と場にそぐわないフレーズで話を始めた近藤は、「彼女が皆さんの前にふたたび出られた」「明菜ちゃんが再出発のレールを引くお手伝いができたことに喜びを感じる」など、SMAPの解散騒動とよく似た恩着せがましいコメントを打ったのち、来年に控えた自身のアニバーサル・イヤーを宣伝するなど、デリカシーの欠如を感じず高圧な態度が鼻につきました。

記者からの質問に対しても高飛車な対応に終始し、一方的に話を遮ったり、中森の泣き面とはアンバランスな笑顔を見せるなど、それまでの熱愛報道を全否定するかのような態度は視聴者の目には異様に映り、まるで自分までが裏切られたような気分になりました。

「金屏風事件」の見方が変わる本

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中森明菜に関する何冊かの書籍がありますが、中森がなぜ金屏風事件であれほどひどい仕打ちに耐え、悲劇のヒロインを演じなければならなかったのか、金屏風事件から30年の月日が経った今、懐かしの80年代を振り返りながら改めて別の角度から分析してみたい、というときにおすすめの本をご紹介します。

哀しい性(さが)

1994年に発表された「哀しい性」は、金屏風事件で研音から独立した中森が「お母さん」と呼ぶほど心を許していたとされる女性ディレクター・木村恵子による暴露本です。のちに中森から「でたらめばかり」と名誉棄損で訴えられて敗訴しています。4000万円の和解金を支払ったといわれています。

中森明菜心の履歴書―不器用だから、いつもひとりぼっち

金屏風事件から5年語の1994年に発行された「中森明菜心の履歴書―不器用だから、いつもひとりぼっち」は、金屏風事件後の中森明菜がさまざまなトラブルの渦中にいたころに著されたもので、内容は幼少期の思い出に始まり、1994年現在の心境で終わっています。

幼少期はとても貧しかったけれど、「お母ちゃん」が見え張りだったことや酒を飲むたびに「明菜さえいなけれ」ばと悔やんで泣いていたことなどが綴られています。母の愛を渇望しながら成長し、いくらトップアイドルになっても「私なんかが生きてていいのかな」という気持ちが消えなかったという中森明菜。

中森が時折見せる歌唱中の涙は、金屏風事件や失恋の痛手だけではなく、そんな自身の幼少期に対しての憐憫だったのでしょうか。金屏風事件をはじめとするさまざまなトラブルは、彼女自身が引き寄せていたのかもしれないと感じさせられる内容の1冊です。

熱愛報道

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ここでは、金屏風事件のきっかけとなった中森明菜と近藤真彦の熱愛報道について振り返ります。

1985年の映画「愛・旅立ち」

金屏風事件の中森明菜と近藤真彦がファン公認で交際中だった1985年に公開された舛田利雄監督の映画「愛・旅立ち」は、交通事故で親友を亡くした主人公・五代誠(近藤真彦)と、不治の病で余命半年と告げられた薄幸の小泉ユキ(中森明菜)の出会いと命の物語です。

金屏風事件のあとでこの映画を観ると、近藤真彦の眼に独特の陰りが見えます。劇中で二人が歌う「CHALAZA(カラザ) ~絆」は、一般販売されることのなかった幻のデュエット曲です。

ターニングポイントとなった「自殺未遂」

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1989年7月11日、中森明菜は近藤真彦の自宅マンションで、左ひじの内側を切って自殺未遂を図りました。傷口の復元手術に6時間もかかるほど傷は深く、面会謝絶が1か月間も続きました。金屏風事件は、中森明菜がこの出来事を生放送で謝罪するというものでした。

松田聖子との密会

金屏風事件の発端となった自殺未遂は、当時交際中だった近藤真彦がニューヨークで松田聖子と密会していたことが明らかになり、動揺したためと伝えられています。

しかし、松田と近藤はかねてより恋人同士というよりは姉弟のように仲がよく、実際には互いにレコーディングでニューヨークに滞在中でした。のちに、ふたりだけの密会という情報はマスコミのデマだったことが明らかになりました。

金銭トラブル

大物芸能人に金銭トラブルはつきものですが、中森明菜が近藤真彦との交際で失った金銭は8千万円ともいわれています。また、近藤真彦が所属するレコード会社の元社員の証言よれば、近藤の当時のマネジャーが絡んだ金銭トラブルも、中森明菜の自殺未遂を誘発した原因のひとつとされています。

結婚願望が強かった中森に対し、マネージャーが結婚後の新居を購入する資金の名目で資金を出させ、それを自分の借金返済にあてたというのです。マネージャーの持ち逃げに関しては近藤も被害者だったといえますが、中森明菜の謝罪会見に近藤真彦が「友人」として同席したのは、自分のマネジャーが犯した不祥事の責任を取るためだったということです。

歌えば必ずヒットする中森は、金屏風事件の後も金銭を巡るトラブルにずいぶん悩まされています。2013年には家族との絶縁が報道され、SNSなどでは金屏風事件以来、孤立を深める一方の中森を心配するファンの声も広がっていました。

金屏風事件の真相

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金屏風事件は、中森明菜と近藤真彦の7年間におよぶ交際の終焉と決別を決定づける儀式のようなものだったといえます。中森自身が金屏風事件の記者会見で訴えた様子から見ても、自殺未遂から金屏風事件までの真相は、とても一言で言い表せない複雑な事情の絡み合いだったと想像できます。

カーレーサーとしてもタレントとしてもさらに飛躍したい近藤にとって、メンタルに支障をきたした中森は重い足枷でした。近藤をサポートしたいジャニーズ事務所としては、中森の自殺未遂を節目として一切のしがらみを終わらせたかったようです。ちなみに、この年の近藤真彦は紅白出場を逃しています。

中森明菜が自殺未遂を図ったあと、NHKは紅白歌合戦での復帰を狙って出演オファーをしていたようですが、中森側が体調不良を理由に出演を断っています。しかし、金屏風事件の緊急記者会見が本当に中森明菜の強い希望によって実現したとなれば、NHKからは紅白歌合戦の視聴率を削ぎにかかったと見做されるでしょう。

金屏風事件の首謀者は、緊急記者会見で中森のイメージダウンを図りたかったものと考えられます。

金屏風事件と芸能活動休止

金屏風事件の頃、中森は近藤との時間を大切にするあまりコンサートをドタキャンするようになっていました。また、金屏風事件のきっかけとなる89年7月の自殺未遂以前にも、喧嘩が原因で何度も自殺未遂を繰り返していたといわれています。

重度の「うつ病」と診断

近藤の自宅マンションの合鍵を持っていた中森は、いつまでも部屋で近藤の帰りを待っていたといいます。金屏風事件で本人も語っていたように、一番大切な近藤に、一番に見つけてもらいたいと願って肘を切ったのです。2010年、中森明菜は重度のうつ病と診断され、2014年まで芸能活動を休止しました。

中森は近藤にとってあまりに重く、面倒くさくて手に負えない存在だったことでしょう。中森の不器用さはその生い立ちによるものだといわれています。6人兄弟の5番目として育った中森は、自分でも「あまり愛情を受けずに育ちました」と語っているように、兄弟のうちでも体が弱くて勉強も苦手な味噌かすでした。

保育士の夢を諦めて歌手を目指したのは、貧しい家を助けるためだったと語っていますが、母が叶えられなかった歌手という夢を受け継いだともいわれます。歌唱中の険しい表情と心優しく顔をくしゃくしゃにする笑顔もファンを魅了する要素ですが、そんな中森明菜の魅力はちょっと悲しい生い立ちに秘密があったことを思うと、金屏風事件がますます非道なものに思えてくるのです。

金屏風事件その後

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金屏風事件のあと、孤立してしまった中森明菜の周りにはさまざまな人物が近づいていました。中森の繊細な精神は消耗し、ますます不安定になっていきます。金屏風事件を機に、中森の「人生が終わってしまった」「あのとき死ねなかったことを悔やんでいるのでは」と嘆くファンの声もあります。

フジテレビ系ドラマ 「素顔のままで」

金屏風事件で設立した個人事務所から「コンティニュー」に移籍し、1991年に「悪女A・B」など4本のドラマに出演した中森は、1992年に放映されたドラマ「素顔のままで」で安田成美とダブル主演を果たし、台湾や香港でも放送されて話題になりました。国内では平均視聴率26.4パーセント、最終回では最高視聴率31.9パーセントを記録した人気作です。

4歳から14歳までバレエ教室に通っていた中森は、私生児で家庭に恵まれなかったダンサーの卵「月島カンナ」という女性の役を演じ、当たり役で女同士の友情を自然に表現しました。

「コレクション」に続く「コンティニュー」は中森明菜の新事務所として設立されましたが、その年に中森のレコード会社移籍にかかわる金銭トラブルで休止状態に陥り、のちに1億3651万円の負債を抱えて破産宣告を受けています。この頃に出会ったのが、後述する「お母さん」と呼ばれる人物です。

実母の死

金屏風事件から6年後の1995年、中森が「お母ちゃん」と呼んでいた最愛の母・千恵子さんが末期ガンで逝去(享年58歳)しました。中森にとって誰よりも大切な存在だと考えられていた母の千恵子さんですが、入院中はお見舞いに来ることもなく、葬儀のあとは家族の断絶が噂されました。

実の父親によれば、家族観で何らかの誤解があったということですが、2016年には中森が分籍によって中森家から抜けていたことが報道されて話題になりました。「分籍」とは、つまり中森明菜が戸籍の筆頭者になったということで、家族とは戸籍上の縁が切れるわけではありませんが、本籍地を自由に変更することが可能です。一度両親の戸籍から離れると二度と戻ることができません。

「お母さん」の裏切り

金屏風事件のあと中森明菜は研音を離れ、金屏風事件の首謀者といわれている小杉理宇造と新会社を設立しました。しかし、活動再開を前に小杉は新会社を捨ててジャニーズの幹部に名を連ねます。事務所から切り離された中森明菜を苦しめたのは、ラジオ番組の企画が縁で「お母さん」と慕うようになった木村恵子でした。

のちに中森の行きつけだったレストランの元従業員男性との交際が始まり、マネージャーを経て1993年に会社の副社長になりましたが、木村恵子がこれに反対したことで中森との縁が切れたようです。

木村はわずか1年ほどしか中森の事務所と関わっていませんでしたが、のちに暴露本「悲しい性」など2冊を出版して30万部を売り上げ、中森と副社長の麻薬疑惑をでっち上げるなど、トラブルメーカーとなっています。

今も根強い人気の歌姫

2014年「紅白出場」

金屏風事件から体調不良で無期活動休止中だった中森明菜が、2014年暮れの紅白歌合戦に出場して話題になりました。NHKから毎年のようにオファーがあったという中森の紅白出場は、約4年5か月ぶりにニューヨークのレコーディングスタジオからの生中継という形で実現し、力強い歌声を披露しました。

消え入りそうなトークやおどおどした様子は相変わらずで、いまだに金屏風事件を引きずってるかのようにも見えましたが、「みなさんに少しでも温かさが届けばいいなと思います」とのメッセージのあと、新曲「Rojo-Teirra-(ロホ ティエラ)」を熱唱。歌姫の完全復活を予感し、うれしい新年を迎えたファンも多かったはずです。

中森明菜 デビュー35周年

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2015年「再生不能」

前年暮れのNHKの紅白歌合戦出場で芸能界復帰を果たしたかに見えた中森明菜の、囁くような話し声とは打って変わり、その鬼気迫るような歌唱に「生きててくれてありがとう」と心のなかでつぶやいたファンも多かったのではないでしょうか。まだ対人恐怖症が癒えず、スタジオ出演は難しいといわれながらも回復の兆しが伺われました。

2015年9月30日に発表されたアニバーサリーシングル「unfixable」は、通算50枚目のメモリアルナンバーで、全編英語詞ですがそのタイトルの意味は「再生不能」。その真意は、昔のようにはまだ歌えないけど聴いてほしいとのメッセージが込められているといわれます。

2016年「復活」

金屏風事件事件からおよそ30年、2009年から7年ぶりの2016年12月。中森明菜は「Akina Nakamori Dinner Show 2016」でついにステージに戻ってきました。開園の10分前から始まった明菜コールの中、東京ヒルトンお台場に集まったファンクラブ会員の前に現れた中森は、モノクロのドレスに身を包み、変わらぬ笑顔であいさつをしました。

復帰後初の新曲「Rojo -Tierra-」や新藤晴一(ポルノグラフィティ)作詞による「ひらり-SAKURA-」に始まり、「飾りじゃないのよ涙は」「ミアモーレ」などのヒット曲をメドレーで歌い切るなど、80分にわたるステージは以前と変わらない伝説的パフォーマンスでした。

また、「長いあいだ待たせてしまって申し訳ありません」「あきらめずに待ってて頂いて心から感謝します」と感謝の言葉を述べ、カバーアルバム「Belie」や限定盤「Belie + Vampire」も発表されました。

金屏風事件から28年の中森明菜「最近の活動」

AKINA NAKAMORI DINNER SHOW 2017 CLUB NIGHT

昨年の7都市10公演に続き、14都市18ステージで展開する中森明菜ディナーショー「AKINA NAKAMORI DINNER SHOW 2017 CLUB NIGHT」は、大阪でのステージを皮切りに、東京のクリスマス・ナイトでファイナルを迎えます。

ディナーショーというより、もはや全国ツアーに近い規模で展開されるイベントは、自身のヒット曲はもちろん、さまざまなカバー曲が彼女の歌声で楽しめるとあって毎年好評で、評論家も絶賛する充実した内容です。

オリジナルアルバム「明菜」

11月8日リリース予定のオリジナルアルバム「明菜」は、意外にもはじめて自身の名前を冠したタイトルで、中森明菜が大好きな角川映画の主題歌をモチーフにしたコンセプト・アルバムです。同時に発売されるディスコ・カバーです。

オリジナルアルバム「明菜」と同時に発売になったディスコカバー「Cage」は、平成バブル景気の懐古ともいえる80年代の「ディスコ」ヒットばかりを集めた作品。「ダンシング・ヒーロー」「Venus」など、金屏風事件で失速する以前の精力的だった中森明菜を思い出す選曲になっています。

2017年は完全復活するのか

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いかがでしたか。80年代を代表するアイドルの熱愛と破局、そして裏切りまで詰まった「金屏風事件」をご紹介しました。中森明菜、SMAPに続く第3の金屏風事件はあるのでしょうか。視聴者やファンを蚊帳の外にする芸能プロダクションに未来はあるのでしょうか。

画一的だったテレビ時代と今とは違います。ファンはSNSを通じて避難できるし、「拡散」という方法で制裁を加えることもできるのです。かつての人気アイドルが再起不能であろうと復帰可能であろうと、金屏風事件のショックがファンの脳裏から消えることはないでしょう。

エンターテイメントは、消費者にとって生活の潤いに過ぎないものですが、かけがえのない人生を彩るアクセントでもあります。今後も非道な画策や報道で気分を害されるようなことが続けば、消費者のテレビ離れはますます進み、タレントと事務所の関係性も見直されることでしょう。

金屏風事件の首謀者とされている人物の動向からは、今後も目が離せません。

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