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袴田事件の概要・冤罪・長女の犯人説・長女の現在

Small 36c80735 a9a9 468c 86b2 fcc1ced17f0a樽瀬川
重大事件 / 2017年10月05日
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袴田事件の概要

袴田事件とは

袴田事件とは、昭和41年(1966)静岡県の清水で起きた強盗殺人放火事件です。6月30日、味噌製造会社の専務宅が放火されました。そして焼け跡から専務とその妻、17歳の次女と14歳の長男の他殺体が発見されたのです。一家で生き残ったのは当時19歳の長女橋本昌子さんだけでした。

警察が味噌工場とその従業員を調べ、袴田事件から5年前に引退したフェザー級のプロボクサーの袴田巌さんの部屋から血のついたパジャマを押収しました。その後、強盗殺人と放火、窃盗の容疑で逮捕され、裁判で死刑判決を下されました。

しかし、袴田事件はここで終わりではありません。袴田事件の犯人で死刑を宣告された袴田巌さんは、冤罪を訴えました。

袴田事件の流れ

容疑者・袴田巌さんの半生

袴田事件で容疑者として逮捕され、死刑判決を受けた袴田巌さんは昭和11年(1936年)に静岡県の浜松に生まれました。中学卒業後からボクシングを始め、23歳の頃プロボクサーを目指して上京し、ボクシング草創期の強豪ボクサー、岡本不二氏の弟子となります。

そして、その年の11月にプロデビューを果たしました。全日本フェーザー級の6位にもなりましたが度重なる試合に身体不調となり、プロデビューから2年後の昭和36年(1961年)の5月に引退しました。

しかし、袴田さんはボクサー復帰を諦めてはいませんでした。いつか再起することを考えながら清水の味噌会社に就職します。そして、引退から5年経った昭和41年(1966年)6月30日、のちに袴田事件と呼ばれる強盗殺人放火事件が起こります。

袴田事件当日の出来事

袴田事件の現場となった専務宅は、普段から従業員が食事をしたり、子供たちの家庭教師がやってきたりと人の出入りが激しい家でした。加えて当日は月末だったため、さらに多くの人が訪れて証言をしています。それによると、大体のタイムスケジュールは下記の通りになります。

18:00経理が専務宅を後にする。

22:00次女と長男の家庭教師2名が帰る。この時中年男性が来訪する。

22:10長女が帰宅する。

22:30袴田さんが寮に戻って就寝

02:10専務宅から火災発生。袴田さんら従業員が消火活動を手伝う。

02:30火災鎮火

この家庭教師が見たという中年男性は誰なのか判ってはいません。袴田事件の重要な参考人となる人物の可能性がありますが、警察が調べた形跡はないのです。また、長女は袴田事件発生時は素行不良で両親から勘当されていて、祖父の家に住んでいました。袴田事件当日に帰ってきた理由は長女自身の弁では「旅行の帰りに立ち寄った」との事です。

袴田事件の状況

全焼した家屋跡から見つかった家族4人の真っ黒に焼けた遺体には、鋭利な刃物で何十箇所も刺された跡がありました。焼け残った衣類からはガソリンの臭いがついていて、店の売上金8万円が盗まれていました。

警察は、事件の状況から会社の関係者であるという疑いを強め、事件現場の線路を隔てた裏側にあった工場2階の従業員寮に住んでいた袴田巌さん(当時30歳)にアリバイがない事を突き止めました。袴田さんは、事件直後に左手中指に怪我を作っていて、部屋を捜索すると袴田さんとは違う血液型の血痕がついたパジャマが発見されました。

そしてなんと「元ボクサーだから」という理由で犯人と断定され、逮捕されたのです。事件は「袴田事件」と呼ばれるようになり、袴田さんは20日間勾留されて取り調べを受ける事になります。

無実を訴える袴田さん

袴田事件の容疑者として逮捕された袴田さんは、20日間ずっと容疑を否認していました。しかし、拘留期限の3日前についに自白したのです。それによると事件当日、店の売上金を盗もうとした袴田さんは、パジャマ姿で専務宅に侵入しました。しかし、専務に見つかったために小刀で家族4人をメッタ刺しにして殺し、売上金を盗んで油を撒いて火を放ち逃走したと言います。

しかし、11月に開かれた袴田事件後初の裁判で、袴田さんは再び無罪を主張しました。裁判は年が明けても続き、検察側の立証が終わろうとしていた袴田事件翌年の昭和42年(1967年)の8月、新たな証拠が見つかります。味噌製造工場の味噌タンクの底から、血に染まった衣類の入った麻袋が従業員の手で発見されました。

ついに容疑者に死刑判決

警察が袴田さんの実家の部屋を調べると、タンスの中から5点の衣類の中の一つ「鉄紺色のズボン」と同色の共布(裾上げした時の切れ端)を見つけました。袴田さんは、5点の衣類は自分のものではないと主張しましたが、翌年の裁判で死刑が言い渡されました。

袴田さんは、その判決を不服を申し立てて控訴し、死刑判決の翌年、昭和44年(1969年)5月から、もう一度裁判が行われるかの審判が東京最高裁判所で行われました。その時に、袴田さんは5点の衣類の着用を強く希望し、鉄紺色のズボンは袴田さんには小さすぎる事が証明されました。

しかし事件から10年経った昭和51年(1976年)5月、東京最高裁は袴田さんの控訴を棄却。袴田さんはなおも無実を訴えますが、昭和55年(1980年)12月にそれも棄却され、袴田事件から14年経ってついに死刑が確定したのです。

それでも僕はやっていない

しかし、袴田さんの主張はなおも変わりません。判決の翌年、昭和56年(1981年)に静岡地方裁判所に再審を請求し、弁護団が無実を示す多くの新証拠を提出しました。その訴えは、元号が平成に変わっても続けられました。

技術も進歩して、今では当然行われているDNA鑑定も始まりました。しかし、再審の訴えは平成6年(1994年)8月に棄却されました。希望を託した5点の衣類のDNA鑑定結果は「鑑定不能」でした。

弁護団はすぐに不服申し立てを行いますが、棄却され続け、ついに平成20年(2008)3月再審は行われない事になりました。袴田さんも長期の拘禁と死刑への恐怖のため、精神疾患に掛かり、自分で再審請求ができなくなり、代わりに姉のひで子さんが再審請求をしました。

袴田さんついに釈放

第2再審が請求された時期は、平成2年にあった女児殺害事件の「足利事件」や、袴田事件と同時期昭和42年にあった強盗殺人事件の「布川事件」など、冤罪が疑わしい事件の再審が認められ、容疑者が無罪となるケースが立て続けに起きました。

世間も「冤罪」に対する関心が強くなり、国会でも衆参両議員からなる「袴田巌死刑囚救援議員連盟」が発足しました。法務大臣に死刑執行停止を請求しました。

検察側も証拠開示に応じました。そして袴田さんのアリバイを証言した同僚がいたにも関わらず、検察が袴田さんが犯人であるかのように供述を捏造した事が発覚し、さらに精度を増したDNA検査で、被害者の服に付着していた犯人のものと思われる血が、袴田さんのものではない事が判明しました。

そして平成26年(2014年)袴田事件から48年、当時30歳だった袴田さんが78歳になってようやく再審が決定し、死刑および拘置の停止されました。

裁判のしくみ

第1審

袴田事件を紹介するにあたり、日本の裁判のしくみを簡単に説明します。まず、裁判には民事裁判と刑事裁判があります。民事裁判は土地や金銭、離婚や仕事、ご近所トラブルなどを扱います。刑事事件は犯罪者に「刑罰」を下すための裁判です。袴田事件も当然「刑事裁判」です。

そして、裁判所も「地方裁判所」と「最高裁判所・高等裁判所」があり、原則的に刑事裁判は、まずは事件のあった場所にある地方裁判所で行われます。これが、第1審と呼ばれるものです。袴田事件の場合静岡県の事件なので静岡地方裁判所(静岡地裁)で争われました。

また、裁判官は1人の場合と3人の場合があります。いずれの場合も、裁判長は最高裁判所から派遣されます。袴田事件では3人の裁判官がいました。地方裁判所の判決で有罪となった被告は、それに納得できなければ不服を申し立てて、最高裁判所や高等裁判所にもう一度裁判をしてほしいと申請する事ができます。

再審請求

有罪になりたくないからといって、ただ闇雲に再審請求できるものではありません。請求した側は、裁判の材料になるような新しい証拠を最高裁判所に提出し「もう一度裁判をするかどうか」を「裁判」するのです。

もちろん、再審請求は有罪となった場合の被告人側ではなく、無罪となった場合の警察側も行う事ができます。裁判の決定を覆すような証拠品が必要なため、再審請求が通るのは被告人にとっても警察にとっても「狭き門」となります。

袴田事件では、静岡地裁での第1審判決が事件から2年後に出ました。そこからすぐに東京高等裁判所に再審請求をしたのですが、再審の為の裁判が始まったのはその翌年です。再審請求が棄却されたのが7年後です。

棄却された翌日に今度は、最高裁判所にさらに再審請求をします。その後、何度も再審請求と棄却を繰り返し、事件から48年たってついに再審請求が通りました。つまり、袴田事件はまだ無罪判決を受けたわけではなく、裁判のやり直しが決定されただけにすぎないのです。

容疑者と被疑者と被告人と犯人

ドラマやニュースなどで、逮捕された人物を「容疑者」「被疑者」「被告人」と様々な呼び方がされます。これらの呼び方で、置かれた立場がわかります。

まず、警察から「この人がやったのではないか」と疑われている状態が「被疑者」です。昔のテレビや新聞では被疑者を呼び捨てにして報道していました。しかし、まだ疑われている段階で呼び捨てにしてしまうのはいかがなものかという風潮が現れ始め「◯◯容疑者」という表現を使うようになりました。

被疑者は、疑いをかけられた時点で呼ばれますが、容疑者はマスコミの発表用の言葉なので、逮捕される前の人物に使われる事は少ないです。そして、裁判が始まると「被告人」と呼ばれ、マスコミには「◯◯被告」と呼ばれます。そして、裁判で有罪判決が出て「犯人」となります。

勾留と拘留

勾留と拘留は、読み方はどちらもコウリュウですが、意味は全く違います。まず、手偏の方の拘留は、刑罰で犯人が刑務所に入れられている状態です。そして、勾留は被疑者や被告人が警察施設内にいる事で、被疑者は勾留所、被告人は拘置所に入れられます。

被疑者の勾留期間は10日間で、その後10日間まで延長ができます。一度の請求では10日間までですが、事件の複雑さや証拠収集の遅延など、正当な理由があれば何度も請求できます。取り調べの結果、疑いが晴れれば釈放されますが、被疑者が犯行を認めて自白すると、今度は裁判の為に拘置所へと入れられます。

裁判の結果無罪ならば釈放されますが、有罪ならば犯人となり刑罰に処されます。再審請求し、その審議をしている間は刑の執行中なので基本は釈放されません。裁判所が再審を決定し、勾留停止を決定して初めて釈放されるのです。

袴田事件の袴田さんは、2審が決定して48年間の勾留ののち釈放されました。これは、一度世界一長い間収監された死刑囚としてギネス記録に認定されましたが、本人の不本意による不名誉な記録なので後に取り消されています。

袴田事件の冤罪は何故起きたのか

刑事のプライド

事件を捜査するとき、刑事たちは現場の状況や証拠品から当日何が起こったのかを推測します。いわゆる「シナリオ」です。

袴田事件発生直後、現場を担当した清水署の刑事は「放火・殺人」の事案として調べていました。特に次女に対する刃物の刺し傷は執拗で「猟奇的」と表現していて、怨恨や痴情のもつれなどの人間関係のトラブルも視野にいれていました。

刑事の間では「49日過ぎて、犯人を見つけられないようでは刑事の面子が立たない」言われています。2ヶ月近く経ってもまだ迷宮入りでは、遺族の方にも申し訳がたたないという意識もあります。

袴田事件は静岡県内でも大きな事件で、これが迷宮入りとなっていしまっては警察の沽券にもかかわります。なので、早くから県警から腕利きの刑事が派遣され指揮をとったのです。

捏造される袴田事件のシナリオ

静岡県警は、まず現金の入っているいくつかの小袋のうち、8万円と書かれた袋の中身が無い事に着目してシナリオに「強盗」を加えました。しかし、被害者宅にはもっと多くの現金や高価な金目のものがあるにも関わらず、無くなっている金品はそれだけだったのです。

けれど、袴田事件当日が給料日だった事もあり、現金が被害者宅にあると知っている会社従業員の仕業だろうとしました。

そこで、静岡県警は袴田事件の被害者の周辺人物を捜査しました。その時の袴田さんの捜査報告書には「虚言癖がある」「女癖が悪い」「お金に困ると服を質屋に入れる」「勤務態度が悪い」とし、従業員の中では一番疑わしいとされました。

しかし、この情報に対して裏付け調査をどう行って事実確認をしたのかは残っていません。また後年になってあるジャーナリストが取材したところ、そういった事実はありませんでした。

袴田事件証拠発見!そして取り調べへ……

袴田事件当初から袴田さんを犯人として調査していた県警は、袴田さんの部屋からパジャマを押収。これを被害者の血液だとして袴田さんを逮捕しました。当時の新聞には「捜査本部の大量の血痕のついたパジャマと作業着を押収」と報道されましたが、実際についていたのは小さなシミで、血のついた作業着もありませんでした。

県警は「パジャマ姿で犯行に及んだ」というシナリオを描いたのです。そして袴田さんを袴田事件の容疑者として逮捕したのです。しかし、この証拠は約1年後、無かった事にされます。(後述)

さらに、袴田さん本人によると、パジャマは袴田事件当日に着て寝ていたもので、火事に気づいて消火活動を手伝うために飛び出しました。同じく、消火活動をしていた従業員も、パジャマ姿のままずぶ濡れになっている袴田さんを目撃しています。

拷問王、紅林の弟子

静岡県警には、紅林麻雄という警部がいました。数々の難事件を解決に導いた名刑事でしたが、一方で無実の人物から拷問で自白を引き出し、多くの冤罪を生んだ恐怖の警部で、「拷問王」と恐れられていました。

事件名発生年再審決定無罪判決
幸浦事件1948年1957年1963年
二俣事件1950年1953年1957年
小島事件1950年1956年1958年
島田事件1954年1986年1989年

紅林は、容疑者から自白を引き出す拷問考えては部下に実行させていました。しかも、二俣事件では真犯人と思われる人物から賄賂を受け取った疑いまであるのです。

しかし、上記の事件で次々と再審が確定し無罪となるについて、世間や警察内部のバッシングを浴び、幸浦事件の無罪判決が言い渡された1963年7月に辞職します。その三ヶ月後に脳溢血で他界しました。

袴田事件が起こったのは紅林が退職してから三年です。袴田事件の取り調べを担当したのは、拷問王紅林から直接手ほどきを受けた刑事だったのです。

地獄の20日間

袴田さんは毎日、短くても7時間、長い時には16時間以上取り調べを受け、途中に休憩は与えられず、「自白すれば休ませてやる」と言われました。トイレに行きたいと言えば今度は取り調べ室におまるを持ち込まれ、刑事たちの前で用を足すという屈辱を与えられます。

ようやく取り調べが終わり留置所に戻されても、今度はわざと隣の部屋に酔っぱらいを入れたに、大声を出して脅すなどをして、十分に睡眠する事を許しませんでした。取り調べ中の容疑者は弁護士を呼ぶ権利がありますが、袴田さんの弁護士との接見は取り調べ期間中わずか3回。各10分ほどしか与えられなかったのです。

元プロボクサーといえど拷問王の直弟子の取り調べには耐えられず、つい自由になりたくて嘘の自白をしてしまいました。

袴田事件の犯行動機は何?

取り調べ中に二転三転する袴田事件の動機

後に袴田事件担当の弁護士が入手した取り調べ報告書には「袴田が犯人にまちがいない。犯人と思い込ませて自白させろ」と書かれていたと言います。やってもいない事を自白させられたため、その内容がコロコロと変わります。

最初は、被害者である専務の奥さんと不倫関係にあり、奥さんから強盗に見せかけて家を焼いて欲しいと頼まれたからと言っていました。しかし次の日には、不倫が専務にバレて専務と話をつけようとして殺してしまったと言っています。

どちらにせよ、一家4人を惨殺する動機には不自然なものに思えます。そして、次の日に語った「母と子ども三人で暮らすアパートを借りるお金が欲しかった」と述べました。警察は、この一応は合理性のある犯行動機を「採用」する事になります。

不自然な犯行動機

袴田事件の犯行動機が、前述の通り「母と子と三人で暮らすアパートを借りるお金」としましょう。袴田事件当時、確かに袴田さんは結婚していて奥さんとは別居中でした。そして、子どもを引き取って実家に預けていたのです。

決して高くない給料で、子供を養うのは大変だったというのは事実でしょう。しかし、勤めていた味噌会社はそうした生活が苦しい社員も多く、給料の前借り制度がありました。

さらには、袴田事件の2ヶ月ほど前から袴田さんのお父さんは病気で倒れて寝たきりとなり、なんと袴田さんのお母さんは寝たきりのお父さんを残して家を出ていたのです。とうてい「息子と孫と一緒に暮らす」事ができる状況ではないでしょう。なので「母親と暮らす」というこの動機もかなり不自然であると言えます。

犯行計画の矛盾

袴田事件の判決文には袴田さんは「金品を盗むために侵入し、もし見つかったら刃物で脅してでも盗むつもりだった」とあります。一見何の矛盾もありませんが、袴田事件当時の袴田さんと被害者家族の関係を考えると非常に不自然です。

まず、袴田さんは被害者である専務のいるみそ会社で働いていました。当然専務と奥さんとは顔見知りです。それどころか、食事は日頃専務宅で食べていたので、娘や息子とも顔見知りなのです。

となると、一目見れば家族の誰もが袴田さんだと判ってしまうのですから、絶対に見つかってはいけないはずです。けれど、袴田さんの自白にも袴田事件犯行時のものと言われる服にも「顔を隠すためのマスク」などは出てきていません。

見つかってしまえば、たとえ刃物で脅しその場から逃げられたとしても、即行で通報されるのがオチです。だからもし、本当に袴田さんが金品を盗もうとしたら、家に誰もいない時間帯を狙うはずで、袴田さんはその時間を十分に知ることが出来る関係性なはずです。

そもそも盗んだお金はどこに行った?

被害額は8万円

袴田事件は、金品目的の殺人事件だとすると、そもそも盗んだのはたった8万円。専務宅にはもっと多額のお金や高価な品物の数々があったのに、それには手をつけていない事は不自然です。しかも、袴田さんが自白した現金8万円を手にした状況も犯行動機と同じようにコロコロと変わります。

初めは、不倫関係だった奥さんとの話し合いの末口論になり、8万円が入った袋ごと叩きつけられるように渡されたと言っていました。

しかし、犯行動機が金品目的に変わると今度は「8万円が入った袋から抜き取った」としています。殺人を犯してまで手に入れた「現金8万円」はどうなったのでしょう。実は、裁判では全く引き合いに出されていなかったある事件がありました。

袴田事件容疑者逮捕前に見つかった黒財布

袴田事件発生から12日後、袴田さんが逮捕される前に袴田事件が強盗目的であるという事が覆るような重要な物証が見つかっています。富士急バスの車内に落ちていた黒い財布が、警察署に届けられました。

財布の中には82325円の現金と、折りたたまれたハガキがありました。そのハガキはいわゆるDM、なんと袴田事件被害者のみそ会社がお客さんに当てる案内状だったのです。

まだ、袴田事件の容疑者が誰かも分からず、盗まれた現金の金額も発表されていませんでした。なのでこれは袴田事件の重要な手掛かりとして新聞にも大きく取り上げられ、財布やハガキの写真も載っています。

そこには「6月30日に事件はあったが工場は無事だったので7月から営業を再開します」と印刷されていて、宛名欄には誰の氏名も書かれてはいませんでしたが毛筆で「ヨウゲン」という謎の文字が書かれていました。

5万円を預かった女性

しかし、この黒い財布は、袴田事件の裁判中一切言及されませんでした。その代わり、裁判中で採用されたのは袴田さんの「5万円を知り合いの女性に預けた」という自白でした。20日間の取り調べの末に袴田さんが自白したのは9月6日でしたが、その1週間後に「イワオ」と書かれた差出人不明の清水警察署長宛の封筒が郵便局内で発見されました。

封筒の中には「ミソコウバノボノカバンノナカニシラズニアツタツミトウナ」という手紙と共にナンバーが焼かれた5万700円の現金が入っていたのです。警察は、筆跡鑑定の結果、袴田さんと同じ工場で働いていた元同僚女性を「窃盗品保管の容疑」で逮捕しました。女性は盗んだお金だと知って、匿名で警察に送った事になっています。

しかし、筆跡鑑定方法は疑わしく、裁判でこの女性はお金を受け取った事を否定しています。

袴田事件では何を凶器に使ったか

使われたのは本当にくり小刀なのか

袴田事件の第1審判決文によれば、袴田さんは「くり小刀」と呼ばれる、柄の部分が手のひらほどしかない小さな刃物を握り締め、被害者たち4人を何度も何度も刺した事になっています。袴田事件の凶器とされるくり小刀は、現場検証をした警察が次女の遺体の足元に、刃だけの状態で真っ黒に焼け焦げて発見されています。

袴田事件の被害者の遺体に残る傷の状態は克明に記録されています。特に損傷が激しかった次女は、左胸の傷が心臓を貫通して背骨にまで達していました。遺体の傷の深さは14cmほど。しかし、くり小刀の刃渡りは12cmほどしかないのです。

しかも、その傷口の幅は1.2cmで、くり小刀は2.2cmもあります。その上、家族4人をメッタ刺しにして専務と次女は肋骨を刃物で切断されていたにもかかわらず、くり小刀は切っ先がわずかにかけていただけなのです。

袴田さんはくり小刀を買ったのか

袴田事件の凶器である「くり小刀」は、袴田事件の2,3ヶ月前に沼津の刃物屋で購入し、袴田事件発生後は部屋に隠していたと自白しました。この時点で、次女の足元に落ちていた状況からは矛盾がありますが、購入したとされる店の店員が、袴田さんに見覚えがあったということで凶器と断定されたのです。しかも、店員の証言も信用性があると言えるものではありませんでした。

店員は、まず警察の事情聴取の時に袴田さんの顔写真を一枚差し出され「見覚えがあるか?」ときかれました。店員は「見覚えがあるような気がするけど、分からない。私は普段家と店の往復しかしていないので、見覚えがあるとしたらお客さんという事なのかもしれない」と曖昧に答えています。

そして、裁判で証言台に立った時も「何かを売ったような記憶はあるが、それがくり小刀かはわからない」と答え、弁護士の質問にも「今までくり小刀を売ったお客さんの顔は全く覚えてない」と答えました。

袴田事件の犯人は何を着ていた?

袴田事件の犯人が着ていた服はパジャマ?5点の衣類?

袴田事件では警察側は当初、袴田さんは「パジャマ姿で犯行に及んだ」としていました。しかし、袴田事件の裁判中、袴田事件から1年2ヶ月後に、袴田事件発生当時に念入りに調べたはずの味噌工場のタンクの中から5点の衣類が発見されました。その途端、警察側は「この5点の衣類を着用して犯行に及んだ」と主張を一点させたのです。

袴田さんが強要された自白でも「パジャマ姿で」と言っていて、鑑定結果でも血液の付着を確認し、いままでの裁判は全てこれを証拠としていました。普通ならこの時点で警察側の完全敗北で、自白も鑑定結果も捏造ということになり、袴田さんは無罪放免で終わります。

しかし、袴田事件を担当した裁判官はこの5点の衣類を袴田事件犯行時の服装だとした上で「袴田さんは犯行時の衣類について嘘をついた」として、裁判を続行したのです。

袴田事件の重要証拠となった5点の衣類

袴田事件の新たな証拠5点の衣類とは「ねずみ色のスポーツシャツ」「白い半袖シャツ」「緑色のブリーフ」「鉄紺色のズボン」「白いステテコ」です。これらの衣類から袴田事件被害者と同じ血液型の血痕がベッタリと付着していました。

しかし、袴田事件被害者の血液型は専務はA型、奥さんはB型、次女がO型で、長男がAB型なのです。ですからどの血液型が検出されようと、袴田事件被害者の血液型と一致するのは当たり前なのです。

そして、検出されたのは「A・B・AB型」で、O型は検出されていません。次女の遺体は特に刃物による損傷が激しいものでした。よって、次女の血液型であるO型が検出されないのはかなり不自然であると言わざるを得ません。

さらに不可解なのは、ブリーフから検出されたB型の血液が、ステテコとズボンからは検出されていないのです。袴田事件の犯人は専務と奥さんを襲った後、パンツ一丁で長男を襲い、次女は全裸で襲ったとでも言うのでしょうか。

5点の衣類は本当に袴田さんのもの?

警察側は5点の衣類のうち、スポーツシャツと半袖シャツとステテコについては袴田さんのものとは判断できませんでした。しかし、鉄紺色のズボンと緑のブリーフは袴田さんのものと断定し、同じ袋に入っていたのだから他の3点も袴田さんのものとしたのです。

ズボンとブリーフを袴田さんのものと断定した理由は、袴田さんの実家のタンスにズボンと同色の「ウェストのサイズ直しした時の端切れ」があった事。そして、袴田さんは元々緑色のブリーフを事件前から所有していた事からです。

しかし、袴田さんの私物は、袴田事件の容疑者として逮捕後に実家に送られています。日用品は拘置所にいる袴田さんに家族が差し入れています。そして、緑のブリーフは袴田さんのお兄さんが差し入れたものの、拘置所内の規則で色つきのものは禁止されているので送り返されました。

お兄さんは当然自分の保管している緑のブリーフを証拠として提出しましたが、「家族なので嘘をついて庇っている」として証拠品として認めてもらえませんでした。

履けないズボン

次に袴田さんは「袴田事件時に履いていたとされるズボンは、ウェストを直しているという事なので実際に履かせて欲しい」と訴えましたが、最初の裁判では履かせてもらえませんでした。そしてそのまま死刑判決を受けてしまい、不服申し立てをします。

裁判のやり直しを検討する裁判が行われて、その時には着用実験が3回行われました。そして3回とも、袴田さんにはウェストが小さすぎる事が判明しました。

それなのに、その裁判でも警察側の「90℃以上の熱で乾燥させれば縮む」という主張が通されてしまいました。弁護士は繊維の専門家に鑑定書を書いてもらい、その主張が無理があるという事を証明しましたが、裁判では却下されてしまいました。

死刑判決文を書いた熊本典道さんの懺悔

無罪と確信していた裁判官

しかし、警察側や裁判官たち全員が、この数々の疑問の残る証拠品から袴田さんを有罪判決にしたわけではありませんでした。袴田事件の第1審を担当した3人の裁判官の1人である熊本典道さんは当時29歳で、裁判で決定した判決文を書く役割でした。

熊本さんはまず、裁判が始まってから一貫して無実を主張し口を閉ざす袴田さんの態度にも疑問を持ったのです。熊本さんの経験上、罪を犯しておきながら無罪を主張する犯罪者はもっと喋るはずだと感じていたからです。

そこで「あなたは袴田事件の犯行を自白したのに、なぜ無罪を主張するのですか」と超ど直球な質問しました。すると袴田さんは「自白を強要されたからです」と即答したのです。

熊本さんは、もう一度取り調べの報告書を確認します。すると今まで紹介したような数々の矛盾点を発見したのです。

握りつぶされた熊本裁判官の主張

まず、取り調べ報告書では、犯行動機や状況が二転三転したり、取り調べ中に休みが無かったことで、本当に極限まで追い詰められたのではないかと感じました。次に、証拠品に対しての疑問も裁判中に発言しています。

「パジャマが袴田事件の時の服装なら、もっと血がついてないとおかしくないですか」「こんな小さなナイフで4人も殺害できるわけがない」と主張を続けます。そして、ついに5点の衣類が出てきたのです。この瞬間熊本さんは無罪を確信します。しかし、もう一人の裁判官はこの5点の衣類を有力な証拠とし、有罪を主張しました。

無罪にするか有罪にするかの話し合いは、合議と呼ばれ、別室で行われます。そして、そこで何にあったかは秘密にしなければならない義務があります。その合議で裁判長は、裁判官の多数決で決めようと言い出しました。熊本さんは当然無罪に挙手しました。もう一人は、有罪に挙手し、裁判長は有罪に挙手したのです。袴田事件の判決は多数決で決められてしまいました。

無理やり書かされた判決文

袴田事件の判決が多数決で決まった瞬間、裁判長は熊本さんに「判決文を書いてください」と命じます。それに対して熊本さんは「できません」と抵抗しました。しかし裁判所のルール上書かないわけにはいきません。熊本さんは、悔しさを滲ませながら袴田事件の死刑判決文を書きました。

しかし、せめてもの抵抗に「袴田事件の自白は拷問で無理やり引き出したものである。このような事は二度とあってはならない」という、死刑判決文にあるまじき文を書き足したのです。

熊本さんは、袴田事件で再審請求されたときにこの判決文に疑問を持ってもらいたい。そして、死刑判決を覆して貰いたいと思ったと後に語りました。しかし、その思いは届かず、何度も再審請求が棄却されたのは前述の通りです。

熊本さんのその後

熊本さんは、その後裁判官をやめて弁護士となります。それでも、袴田事件の死刑判決をしてしまった事を悔やみ続け「無実の人間を死刑にしてしまった。殺人と同じだ」とお酒に溺れるようになってしまいます。やがて弁護士もやめ、家族もバラバラになってしまい、熊本さんは自暴自棄の生活を繰り返していました。

しかし、その後転機が訪れます。「このまま死んでしまいたい」と考えていたある日、ある少年の死で嘆き悲しむ家族を見たときに「私がやるべきことは、死ぬことではない。袴田さんを救う事だ」と決心しました。

そして、袴田事件から41年が経った2007年、弁護団が何度目かの再審請求した時に「合議の秘密」の義務を破って死刑判決文を書いた経緯を告白をします。そして、2014年、袴田事件から48年経ってようやく再審が決まり、袴田さんは釈放されたのでした。

袴田事件の真犯人は誰?

真犯人は一体どこに?

袴田事件の犯人が袴田さんではない以上、真犯人別にいる事になります。袴田事件の真犯人はこの48年の間どこで何をしていたのでしょうか。しかし、袴田さんの裁判のやり直しをしても、真犯人は捕まる事は永遠にありません。袴田さんが有罪か無罪かを争っているうちに、袴田事件は発生から15年経ってしまい、時効が成立してしまったからです。

2010年に、殺人事件など死刑にあたる事件の時効は撤廃されましたが、これは2010年の施行時点で時効が成立していない事件に限られます。袴田事件の犯人はこのまま逃げ切ってしまうのでしょうか。袴田事件の真犯人は、被害者の命だけでなく、遺族や袴田さん、そして袴田さんの48年の歳月を奪っておいて、今もどこかでのうのうと笑っているでしょう。

警察関係者説

大きく報道されたにも関わらず、迷宮入りとなってしまった事件は、警察関係者が犯人ではないかとよく噂されています。袴田事件も例外ではありません。警察側は調査の時点ですぐに袴田さんを犯人と決めつけ、疑問を挟む事もありません。

裁判官ですら一人を除いて自白の強要や証拠品の矛盾点を問題にする人はいなかったのです。ここまで常軌を逸脱した調査や裁判なのですから、袴田事件は警察と司法がグルになって、国家ぐるみの隠蔽工作をはかり、袴田さんに罪をなすりつけようとした、と考える人もいました。

また真犯人でなくても、袴田事件に関与した警察や裁判官は冤罪で無実の人間を苦しめたのだから、罰せられるべきだと考える人もいます。しかしこれは、実際に罰する事は難しいでしょう。

何故なら警察は元々容疑者を無罪にする為に調査する機関ではないからです。それに、袴田事件関係者は既に亡くなった方も多いので、袴田さんの無罪が確定し警察関係者を告訴するまではさらに時間もかかるでしょう。

長女(橋本昌子)説

袴田事件の被害者は、静岡県の味噌会社の専務一家です。一家は専務とその妻、二人の娘と一人息子の5人家族でした。袴田事件から数年前。当時高校2年生だった長女(橋本昌子さん)に彼氏ができます。相手は父の会社の従業員です。昌子さんは彼氏に夢中になり、学校にもいかなくなってしまいました。

昌子さんは高校を退学させられ、両親から勘当されてしまいました。そして、祖父の家に住んでいたのですが、袴田事件の当日、たまたま家に帰って来ました。そして、体調が悪かったので、日当たりの良い離れで一人休んでいました。離れには火は回ってこず、昌子さんは一人生き残り、多額の保険金を手にしたのでした。

この事から、真犯人は長女の昌子さんではないかと当時から噂されていました。

暴力団関係者説

袴田事件の被害者の家族に、暴力団とトラブルがあったという噂があります。まず上の「長女説」にも繋がりますが、当時の長女の夫ないし彼氏が暴力団員だったという噂です。袴田事件の被害者の味噌工場の従業員が賭博を趣味にしていて、その賭博仲間に暴力団員がいたという噂です。

そして、袴田事件後に味噌会社の合併を持ちかけた会社は暴力団のもので、袴田事件の被害者である専務と、その父親である社長との間の、会社を巡るトラブルに以前から関わっていたという噂があります。

袴田事件は強盗殺人放火事件ですが、その殺害方法が単なる強盗目的で侵入しうっかり殺してしまったような殺害方法ではなく「殺すこと」そのものを目的としているような殺害方法なので、一般人ではなく暴力団員のような特殊な人であると考える人もいます。

複数犯説

袴田事件のこれらの犯人説を統合して、以下のようなストーリーを提唱する人もいます。まず、長女と従業員が交際していたが、長女は勉強に手がつかなくなり高校を退学。両親は、長女を勘当します。ですが、まだ交際自体は続いていました。しかし、従業員は賭博で借金が膨らみ、会社の金を横領してそれが専務にバレました。

従業員は暴力団に相談します。暴力団は、以前から味噌会社を狙っていたので協力して一家4人を殺害。次女は、頭が良く両親からも期待されていた為に姉から嫉妬されていた。次女の損傷が特に酷かったのは、姉自身か姉の指示があったから。さらに、警察に賄賂を握らせて袴田さんを犯人に仕向けさせた、と言うのです。

いずれにせよ、袴田事件の真相は長女が握っているとも言われます。では、長女は今どうしているのでしょう。

袴田事件その後

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釈放後の袴田さん

袴田事件の容疑者とし勾留されていた袴田さんは、48年もの間毎日死刑の恐怖と戦っていました。何度も再審請求をしても却下され、ついに精神を病んでしまったのです。ストレスにより、幻覚や幻聴に悩まされ、現実逃避のような妄想が見られました。

これは「拘禁反応」と呼ばれるもので、長い間監禁され、自由を奪われた人が陥りやすい精神状態なのです。釈放される20年以上前からこの症状が見られ、以降の再審請求はお姉さんが代理で行なっていました。

袴田さんは、釈放後はお姉さんの元に身を寄せましたが、表情はなく会話もなかったのですが、徐々に挨拶をするようになったり、表情も豊かになり、一人でも買い物に行けるまで回復しました。しかしまだ「オレはハワイの王族だ」「世界チャンピオンだ」というように会話が噛み合わない事もしばしばあります。

袴田事件の長女の不可解な死

袴田事件の再審が決定し、2014年3月27日に東京最高裁判所は袴田さんの拘留停止を決定しました。そしてその翌日の28日、袴田事件被害者家族の長女である橋本昌子さんが自宅にて遺体で発見されました。警察署の発表では、事件性は低く病気によるものだと言われています。

しかし、そのあまりにもタイミングの良い訃報に、自殺ではないかとか、真相を知っているために警察や仲間の暴力団に殺されたのではないのかとも噂されています。特に警察は、袴田さんを取り調べるときに「今ここでお前が死んでも、病気で死んだと言えばいい」と言って脅したとも言われています。

橋本昌子さんは真犯人なのか、真犯人を知っていたのか、今はもう知る術はありません。もしも、本当に彼女が橋本事件当日に家にいたのは偶然が重なっていただけで、何も知らなかったとしたら、彼女もまた48年間を孤独に生きた事件の被害者なのです。

袴田さんの支援者たち

現在、袴田さんの無罪獲得に向けて多くの人が支援をしています。

日本弁護士連合会による「袴田弁護団」をはじめ、清水・静岡市民による市民会や、社会評論家の呼びかけて芸能や出版の著名人が集まった「袴田巌さんを救う会」、袴田さん釈放時に名誉チャンピオンに任命した日本ボクシング協会、そして袴田事件担当の裁判官だった熊本さんもブログを開設し、袴田さんへの支援を呼びかけています。

最大の冤罪事件「袴田事件」はまだ終わらない

袴田事件は、静岡県のある一家4人の命を奪い、一人の男性の48年間を奪った恐るべき事件でした。しかし、まだ終わったわけでもありません。1966年にあった袴田事件の裁判のやり直しが決定したにすぎないのです。裁判の結果によっては、袴田さんは再び死刑囚として刑務所に入れられてしまうでしょう。

弁護団は、必死に無罪の証拠固めをしています。一方警察側も必死です。警察も裁判所も本来は「正義」であるべき機関です。正義の名のもとに犯罪者を逮捕したのですから、裁判のやり直しが行われること自体が、警察や裁判のあり方を問われる事で、信念のある警察官や裁判官なら不名誉な事でしょう。

しかし、袴田事件には警察や裁判官に「正義」はあったのでしょうか。袴田事件から50年以上も経過し、関係者には既に他界してしまった方もいて、中には熊本元裁判官のように立場上無罪と言えず告白もできなかった人もいたでしょう。

今こそ「冤罪とは何か」「正義とは何か」を考える時がきたのです。50年以上前に起こった袴田事件はこれからが本当の始まりであると言えます。

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