uranaru [uranaru]

なぜ利他主義になるの?利他主義はエゴイストなのか

利他主義の意味

2014年の産経新聞のニュースサイト「産経ニュース」によれば、国内の公的研究機関「統計数理研究所」が公表した国民調査で、「日本人は他者の役に立とうとしている」と考えている人の数は、過去最高の45パーセントにのぼりました。

1978年(昭和53年)の調査開始以来初めて「日本人は自分のことばかり考えている」とするネガティブな意見を上回った背景には、2011年(平成23年)3月11日に発生した東日本大震災で、多くのボランティアが活動する様子が各メディアに紹介された影響もあったとみられます。

ちなみに、最初の調査結果で「日本人が利他主義」であると答えた人の数は、全体のわずか19パーセントでした。戦後日本の社会が成熟し、国民のくらしが豊かになったたことに加え、度重なる大規模な自然災害とSNSの普及などで利他主義が広く浸透したものと考えられます。

利他主義とは

広辞苑によると、利他主義とは「自分を犠牲にして他人に利益を与える事」「阿弥陀如来が人々に功徳や利益を施し済度すること」であると記されています。

利他主義の「利他」とは、災害時のボランティア活動のように自己の利益を度外視して他者の幸福を優先する考え方のことで、それを行動の指針にすることを「利他主義」と呼びます。時には自分を犠牲にしても他者の利益を第一に考えるのが利他主義だといわれています。利他主義は他にも「愛他主義」「博愛主義」などと言い換えられることがあります。

自利と愛他

一方、他者の利益を軽視したり自分の利益を優先することを「利己主義」といいます。人は誰でも他者よりも優位に立ちたいと考え、そのために地物利益を大きくしたいという欲求をもっているといわれますが、あまり利己にこだわると円滑な社会活動を妨げる結果にも繋がることから「自分勝手」というレッテルを張られることがあります。

コントのとなえる利他主義

学術的な意味での「利他主義」は、19世紀フランスの社会学者で哲学者でもあったオーギュスト・コント (Comte, Augste)によって、利己主義を意味する「egoism(エゴイズム)」の対義語として提唱されました。

実証主義の創始者であり「社会学の父」とも称されるコントは、ラテン語の他者(alter)から「altruism(オルトルイズム)」という言葉を造り、それまで「神に対する義務」として人生を捧げることが利他主義ではなく、エゴイズムの抹消だと唱えました。

倫理学をキリスト教を抜きにした純粋な学問として確立したかったコルトですが、利他主義はのちにキリスト教の「隣人愛」の同義として扱われるようになりました。

利他主義はエゴイストなのか

利他主義者は「隠れたエゴイストである」といわれることがあります。これはどういうことかといえば、一見すると他者を思いやって起こしているような行為でも、その心理を深く掘り下げてみると自分の利益を期待しているという考え方で、利他主義に似たエゴという意味の「心理的利己主義」という言葉で表現されます。

利他主義は偽善なのか

利他主義に基づいているように見える行動は、すべて自分の虚栄心を満たすための「自己満足」であったり、外部への印象を良くするための「売名行為」につながるという発想は、ボランティア活動や慈善事業にいそしむ人を一度は苦しめるものです。心理的葛藤に陥った経験をもつ人は少なくないのでしょうか。

利他主義が社会から好意的に受け入れられ、見返りに繋がりやすいということもありますが、利他主義を絶対的な「膳」だと決めつけてしまうと、その反動として自分の影響力や正義感を満たそうとしているのではという「悪」の一面が意識に上ってきます。こうした後ろめたさは、本当の意味でボランティアを「自分のやるべきこと」と認識することで回避できます。

また時には、ライフワークとして慈善活動を続けている有名人や団体が「売名行為」として批判されているケースが見受けられます。人助けの動機に明確な線引きはできませんが、他者の行動を批判したくなる一番の原因としては、やりたくても何らかの理由でできないという罪悪感が考えられます。

利他主義とキリスト教との関係

キリスト教といえば、すべての人に等しく親愛の情をもって接するという「博愛精神」で有名ですが、自分の主義主張や日ごろの恨み辛みを忘れて他者に接するという意味でいえば、教理の中で利他主義についてを説いている代表的なものに、新約聖書の「ルカによる福音書(10章25節~37節)」でイエスが語ったとされる「善きサマリア人のたとえ」があります。

聖書のことば

「善きサマリア人」は、旧約聖書の「レビ記(19章18節)」にある「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という社会秩序の維持を目的とした掟の一部を、のちにイエスキリストが引用し、解釈し直したとされるもので、レンブラントをはじめ、数々の画家が題材にしています。

この物語を短くまとめると、旅の途中で行き倒れになったイスラエル人に対し、何人かの人たちが見て見ぬ振りをして通り過ぎる中、当時の被差別地区でイスラエル人からも虐げられていたサマリアに住む人が親切に助け、大金を払って自分が立ち去った後のケアにまで気を配ったというたとえ話です。

カトリックとプロテスタントによっても解釈が違いますが、一般には「助けを必要としている人には、無条件で救いの手を差し伸べるべきである」と解釈されています。イギリスやアメリカには、災害や急病で窮地の人に善意で手を貸し、結果として助けられなかった場合でも責任を追及されないという「善きサマリア人の法(Good Samaritan laws)」があります。

自分自身のように愛する

キリスト教における隣人愛の解釈は「他者には親切を尽くすように」という道徳律として長いあいだ尊重されてきました。しかし、「善きサマリア人のたとえ」でキリストが教えたかったのは「私と他者は表裏一体」という、究極の利他主義「自他一如」だったとも言われています。

すべての命は「真の命」としてひとつに繋がっているとする「自他一如」は、キリストが神を「父」と呼んだ境地と一致します。人がエゴから解放されるとき、私たちの意識は「自と他」という分離の概念からも解放され、最後は唯一の実在である「神」へと集約されると考えられています。これが宗教を超えた「神への回帰」です。

利他主義と仏教との関係

利他主義の「利他」という言葉は、もともとインドで生まれた仏教用語です。仏教は紀元前5世紀頃の北インドに実在したとされるシャーキャ族のゴータマ・シッダッタ(釈迦)という人物を開祖とする宗教です。国王の息子として生を受け、王子として何不自由のない生活を送っていた釈迦は、あるとき人生に虚しさを感じ、黙って自分探しの旅に出ます。

そこで厳しい修行の末に悟りを開いた釈迦は「仏陀(目覚めた人)」と呼ばれるようにになりました。日本書紀によれば、日本に初めて仏教が伝来したのは6世紀「飛鳥時代」のことで、最初に関心を示したのは蘇我氏だったともいわれます。ときの百済王から欽明天皇にあてて釈迦如来像や経典がもたらされました。

鎌倉時代になると、国家や貴族の儀式としての位置づけだった仏教は民衆にも広まり、さまざまな宗派が誕生しました。仏教は宗派ごとの特色を帯びるようになり、厳しい修行を必要としない簡単な宗教へと変質します。

釈迦の「利他」

究極の幸せとは、自分がどんな環境下に置かれても脅かされることのない「心の平安」です。悟りの境地に達した釈迦は、人生を脅かすすべての苦しみから逃れるためにはどうしたらよいか、という恐怖心そのものが苦の根源であることに気づき、自分探しの旅を終わらせます。苦の正体を見切った釈迦は、残りの寿命を平安のうちに過ごすつもりでした。

しかし釈迦はやがて、自分が知った人生最高の喜びを誰かと分かち合いたいと思うようになりました。「梵天勧請」の伝説によれば、悟りに自己満足していた釈迦のもとに天界の神「梵天(ぼんてん)」がやってきて、他者の利益のために、あなたの体験を述べ伝えてくださいと懇願したため、釈迦は熱意に負けて宣教活動を始めたといわれています。

悟りに自己満足していた釈迦が梵天に請われて、体験談をシェアするという「行動」を起こしたことは、のちに他者の利益を思う心「慈悲」と呼ばれるようになりました。具体的には、「仏教僧団」を組織して各々が自力で悟りを体験できる環境を整え、先輩として後進を指導しました。釈迦の利他とは、他者を救うことではなく手助けすることです。

救済宗教の「利他」

釈迦は「仏陀」として弟子を集め、各々が揺るぎない心の平安にたどり着くまでの道を効率的に伝えようとしました。悟りとは「神や仏が誰かが救ってくれる」ものではなく、自分で気づくものです。しかし、気づいたときの究極の感動は強い「感謝の念」となって、それを受け止める対象を無意識に求めます。そのとき、私たちの脳裏に見えるのが「仏様」なのです。

釈迦が他界して400年が経ってからのことです。悟ったと思った瞬間に人間が創造してしまう「仏様」はいつしか一人歩きをはじめ、仏陀の教えは仏像を拝んだり念仏を唱えれば救われるという「救済宗教」に変質していきました。

「大乗仏教」となって日本に伝来した釈迦の教えは、「自己を犠牲にしてでも人々を救済しようとする有難い仏の想い」という利他主義に変質しました。このため、日本人の考える利他主義には、「願望は自己犠牲を払うことで成就される」という観念が根強いといわれています。

企業が利他主義になることはある?

理念

利他主義は、企業が健全に運営されるために欠かせない理念の基本として、古くは中国の故事などにも見ることができます。今も「経営の神さま」と評され敬愛を集めている松下幸之助(まつしたこうのすけ)は、「商いは公事である」として、顧客に誠心誠意尽くすことがビジネスの大切な心得であると語っています。

利他主義は顧客との信頼関係を大切に考え、長く商いを続けるための秘訣ですが、それを社員の行動指針や経営理念として公言し、利益の追求よりも理念を重んじる企業は社会から信用され、敬愛を受けて発展してきました。

自利利他

企業が利益を得るために努力するのは当たり前のことですが、消費者をだまして粗悪な製品を売りつけるような企業が生き残れる時代は過ぎ去りました。今や「利益の還元」や「Win-Winの関係」といったフレーズはビジネスの常識となって、平和的な利益の循環が実現しています。企業理念に「自利利他」を掲げる会社もあります。

「自利利他」は「公私一如(こうしいちにょ)」ともいわれ、もともと天台宗の開祖・最澄(さいちょう)が教えた言葉です。自分が努力によって得た悟りを自分の利益のために留めておく「自利」と、それを他に生かす「利他」を同時に行うという意味で、大乗仏教における救いの理想とされるシステムです。

より大きな利益を目論んでサービスを売るのではなく、「顧客の立場になって考える」という発想で、まず相手の利益を先に考えるという点で利他主義的といえます。

人間はなぜ利他主義になるのか

ダーウィンの進化論によれば、利他主義に基づく人間行動の進化は、まず血縁関係にある他者への配慮「血縁選択」を最初の利他主義として、限られたグループ内で協力し合う「互恵的利他主義」へと進化しました。つまりダーウィンの考える利他主義は、自分が困った時のための保険のようなものだと考えることができます。

しかし、進化論による利他主義は、利他主義は活動の質や量よりも「動機」によって価値が与えられるという考え方もあります。つまり、被災地に多額の寄付や人員を傾けることよりも、他者の幸せを自分自身の幸せと認識して行動することが大切だというのです。

確かに、動機付けを間違って利他主義を義務感として行動してしまうと、同じボランティア活動をしているつもりでも不公平感に駆られて「他の人にも手伝ってほしい」という感情が芽生えたり、高慢な態度に繋がって別の問題が生じます。

利他主義のまとめ

今回は「利他主義」についてまとめてみました。誰が考えても平和的で正しいと思える利他主義ですが、無償の働きはなかなかできることではありません。また、利他主義を理想としてボランティア活動に身を投じてみると、予想外の葛藤や障害に挫折感を味わうこともあります。

もちろん他者の助けとなることは良いことに違いなく、自己満足は悪いことでもありませんが、善悪を超えた目線で利他主義について考えるチャンスとしてボランティア活動に参加してみると面白い発見があります。いつも無理をすることなく、他者の幸せを願って行動できる人になりたいものでしょう。

モバイルバージョンを終了