利他主義の意味
1978年(昭和53年)の調査開始以来初めて「日本人は自分のことばかり考えている」とするネガティブな意見を上回った背景には、2011年(平成23年)3月11日に発生した東日本大震災で、多くのボランティアが活動する様子が各メディアに紹介された影響もあったとみられます。
ちなみに、最初の調査結果で「日本人が利他主義」であると答えた人の数は、全体のわずか19パーセントでした。戦後日本の社会が成熟し、国民のくらしが豊かになったたことに加え、度重なる大規模な自然災害とSNSの普及などで利他主義が広く浸透したものと考えられます。
利他主義とは
利他主義の「利他」とは、災害時のボランティア活動のように自己の利益を度外視して他者の幸福を優先する考え方のことで、それを行動の指針にすることを「利他主義」と呼びます。時には自分を犠牲にしても他者の利益を第一に考えるのが利他主義だといわれています。利他主義は他にも「愛他主義」「博愛主義」などと言い換えられることがあります。
自利と愛他
コントのとなえる利他主義
実証主義の創始者であり「社会学の父」とも称されるコントは、ラテン語の他者(alter)から「altruism(オルトルイズム)」という言葉を造り、それまで「神に対する義務」として人生を捧げることが利他主義ではなく、エゴイズムの抹消だと唱えました。
倫理学をキリスト教を抜きにした純粋な学問として確立したかったコルトですが、利他主義はのちにキリスト教の「隣人愛」の同義として扱われるようになりました。
利他主義はエゴイストなのか
利他主義は偽善なのか
利他主義が社会から好意的に受け入れられ、見返りに繋がりやすいということもありますが、利他主義を絶対的な「膳」だと決めつけてしまうと、その反動として自分の影響力や正義感を満たそうとしているのではという「悪」の一面が意識に上ってきます。こうした後ろめたさは、本当の意味でボランティアを「自分のやるべきこと」と認識することで回避できます。
また時には、ライフワークとして慈善活動を続けている有名人や団体が「売名行為」として批判されているケースが見受けられます。人助けの動機に明確な線引きはできませんが、他者の行動を批判したくなる一番の原因としては、やりたくても何らかの理由でできないという罪悪感が考えられます。
利他主義とキリスト教との関係
聖書のことば
この物語を短くまとめると、旅の途中で行き倒れになったイスラエル人に対し、何人かの人たちが見て見ぬ振りをして通り過ぎる中、当時の被差別地区でイスラエル人からも虐げられていたサマリアに住む人が親切に助け、大金を払って自分が立ち去った後のケアにまで気を配ったというたとえ話です。
カトリックとプロテスタントによっても解釈が違いますが、一般には「助けを必要としている人には、無条件で救いの手を差し伸べるべきである」と解釈されています。イギリスやアメリカには、災害や急病で窮地の人に善意で手を貸し、結果として助けられなかった場合でも責任を追及されないという「善きサマリア人の法(Good Samaritan laws)」があります。
自分自身のように愛する
すべての命は「真の命」としてひとつに繋がっているとする「自他一如」は、キリストが神を「父」と呼んだ境地と一致します。人がエゴから解放されるとき、私たちの意識は「自と他」という分離の概念からも解放され、最後は唯一の実在である「神」へと集約されると考えられています。これが宗教を超えた「神への回帰」です。
利他主義と仏教との関係
そこで厳しい修行の末に悟りを開いた釈迦は「仏陀(目覚めた人)」と呼ばれるようにになりました。日本書紀によれば、日本に初めて仏教が伝来したのは6世紀「飛鳥時代」のことで、最初に関心を示したのは蘇我氏だったともいわれます。ときの百済王から欽明天皇にあてて釈迦如来像や経典がもたらされました。
鎌倉時代になると、国家や貴族の儀式としての位置づけだった仏教は民衆にも広まり、さまざまな宗派が誕生しました。仏教は宗派ごとの特色を帯びるようになり、厳しい修行を必要としない簡単な宗教へと変質します。
釈迦の「利他」
しかし釈迦はやがて、自分が知った人生最高の喜びを誰かと分かち合いたいと思うようになりました。「梵天勧請」の伝説によれば、悟りに自己満足していた釈迦のもとに天界の神「梵天(ぼんてん)」がやってきて、他者の利益のために、あなたの体験を述べ伝えてくださいと懇願したため、釈迦は熱意に負けて宣教活動を始めたといわれています。
悟りに自己満足していた釈迦が梵天に請われて、体験談をシェアするという「行動」を起こしたことは、のちに他者の利益を思う心「慈悲」と呼ばれるようになりました。具体的には、「仏教僧団」を組織して各々が自力で悟りを体験できる環境を整え、先輩として後進を指導しました。釈迦の利他とは、他者を救うことではなく手助けすることです。
救済宗教の「利他」
釈迦が他界して400年が経ってからのことです。悟ったと思った瞬間に人間が創造してしまう「仏様」はいつしか一人歩きをはじめ、仏陀の教えは仏像を拝んだり念仏を唱えれば救われるという「救済宗教」に変質していきました。
「大乗仏教」となって日本に伝来した釈迦の教えは、「自己を犠牲にしてでも人々を救済しようとする有難い仏の想い」という利他主義に変質しました。このため、日本人の考える利他主義には、「願望は自己犠牲を払うことで成就される」という観念が根強いといわれています。
企業が利他主義になることはある?
理念
利他主義は顧客との信頼関係を大切に考え、長く商いを続けるための秘訣ですが、それを社員の行動指針や経営理念として公言し、利益の追求よりも理念を重んじる企業は社会から信用され、敬愛を受けて発展してきました。
自利利他
「自利利他」は「公私一如(こうしいちにょ)」ともいわれ、もともと天台宗の開祖・最澄(さいちょう)が教えた言葉です。自分が努力によって得た悟りを自分の利益のために留めておく「自利」と、それを他に生かす「利他」を同時に行うという意味で、大乗仏教における救いの理想とされるシステムです。
より大きな利益を目論んでサービスを売るのではなく、「顧客の立場になって考える」という発想で、まず相手の利益を先に考えるという点で利他主義的といえます。
人間はなぜ利他主義になるのか
しかし、進化論による利他主義は、利他主義は活動の質や量よりも「動機」によって価値が与えられるという考え方もあります。つまり、被災地に多額の寄付や人員を傾けることよりも、他者の幸せを自分自身の幸せと認識して行動することが大切だというのです。
確かに、動機付けを間違って利他主義を義務感として行動してしまうと、同じボランティア活動をしているつもりでも不公平感に駆られて「他の人にも手伝ってほしい」という感情が芽生えたり、高慢な態度に繋がって別の問題が生じます。
利他主義のまとめ
もちろん他者の助けとなることは良いことに違いなく、自己満足は悪いことでもありませんが、善悪を超えた目線で利他主義について考えるチャンスとしてボランティア活動に参加してみると面白い発見があります。いつも無理をすることなく、他者の幸せを願って行動できる人になりたいものでしょう。