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考える力は必要?考える力がない人の特徴・考える力がない原因

考える力は必要?

「考える力」について、時代の変化と仕組みの観点からお伝えします。

論理的思考と直観的思考

考える力が欲しいかと問われれば、出来れば無いよりも有った方が良いと思う人が大半でしょう。しかし現実社会を見渡してみると、単純にたくさん考えればそれだけ結果に結びつくというわけではないことに気が付きます。考える力と一言で言っても、その中にも様々な種類の力があります。必要なのは、そのそれぞれをバランス良く育てることです。

そういった意味で、考える力を2種類の力に大きく分けることができます。論理的に考える力と直観的に考える力です。あくまで傾向ですが、前者は主に左脳を使った思考であり、後者は主として右脳を使う思考になります。

実際の社会に出てみると、考える力として論理的な思考だけではなく、直観的な思考が求められます。日々の現実において起こる問題は、論理的に考える力だけでは解決できません。

なぜ論理的に考える力のみでは不十分なのでしょうか。それは現実というものが常に変化しているからです。論理的思考に偏重した人は、過去のデータから未来を予測する傾向が強いため変化をリアルタイムで捉えることが苦手です。

論理は原理上、反復可能な環境の中で構築されますが、過去に起こったことの反復ではない、全く新しい事態に直面したとき、論理に考える力だけでは対応が出来ません。

直観的に考える力が必要な時代

過去に上手くいった方法に従って、確率的に成功しそうな方法を考えることも、経済が安定して成長していた時代には合理的な方法でした。そのような時代においては斬新なアイデアを考えるよりも、失敗のリスクを避けることを考えていれば十分だったからです。

しかし昨今のような経済や社会情勢が比較的不安定な時代においては、そのようなリスクを避けた考え方が逆にリスキーになってしまいます。不安定な時代においては常に、方々で新しい流れが起こります。この流れは、論理的思考に頼り切って思考過多に陥った状態では捉えることができません。

「流れを捉える」と聞くと抽象的に感じるかも知れません。しかし私達は皆、五感を駆使し、感性で物事を捉えて生きているのです。こうすればこうなるという理屈は、限定された条件の中で成立する正しさでしかありません。しかし私達の生きる現実は、過去に起きたことの条件に当てはまらない出来事の連続であり、不安定な時代にはその傾向がさらに高まります。

理屈のみではコミュニケーションがとれない

考える力は、問題を解決するために必要な力です。そして人間として生まれた以上、私たちにとっての中心的な問題は常に人間同士の問題です。私たちは日々色々な悩みを持ちますが、実際のところその悩みの大半が、人間関係の問題に還元されると言っても過言ではありません。

ビジネスにおいても、。相手に価値を提供するとで報酬が得られるという、双方向のコミュニケーションがビジネスの根本であるため、そこで直面する問題は常に人間関係を含んでいます。そして人間の感性は時代とともに、常に変化しています。

この変化に論理的に考える力だけで対応するのは難しいことです。科学的な実験では、現実世界にはない等質な条件を仮定しなければ正しい観察結果が得られません。しかし生きた人間は決して等質なものではあり得ません。それぞれの人間が個性を持ち、そして変化しています。変化していく人間について、論理的に分析することが出来ないとは言えません。

しかし現実的には、ビジネスを含め日々の対応していく上で、論理的な分析を待つ余裕はないと言えます。こうした変化の流れを捉える際、感性的に考える力、右脳的に考える力が不可欠になります。このような考える力はセンスという言葉で片づけられ、生得的に持って生まれてくるもののようなイメージがあるでしょう。

しかし、そういった能力を伸ばしていくことは可能です。昨今では時代の要求を反映してか、直観的、右脳的に考える力を伸ばすメソッドは本やネットで多く情報として出てきています。どのようにすればこういった力を伸ばせるかについて、この後のトピックでもご紹介します。

考える力がない人の特徴

考える力のない人の思考の特徴をみていきましょう。

マニュアルがあるという前提で考えてしまう

考える力がある人とない人の大きな違いは、能動的に考えているか、受動的に考えさせられているかの違いにあります。考えるためのモチベーションが自発的なものではなく、外側から強制的に与えられたものであった場合、自力で考えている度合が低いと言えます。

両者の特徴をさらに見ていくと、問題は外側から与えられるものとして捉えるか、問題を自分で立てるものと捉えるかという違いが目につきます。

例として、お店の店員の人がお客さんに対応する際を考えてみましょう。店員とお客さんの間のコミュニケーションで何か滞りが起こったとき、それへの対応が上から与えられているマニュアルの中にあるとは限りません。

このとき、問題というものが基本的に自分で構築するものであるという意識がある人は、何がこの場合における問題であるかを自分なりに考えて、それを自ら解決するリスクを取ります。

しかし問題というのは外から与えられるものであるという意識を持つ人は、マニュアルにない問題を自分で問題として構築できるという考え方ができないため、そこで問題を思考し、解決するというトライができません。

リスクがなければ成長もない

マニュアルに沿った範囲の中でのみ対処をしていれば、そこには一見リスクがありません。しかしいざというときには、問題を自分で立てるという意識が希薄になると、考える力がスポイルされてしまいます。

自分で問題を立てることにはリスクと責任が伴います。しかし他のあらゆる能力と同じように、問題を自分で立てる能力も普段から意識していかないと伸びていきません。考える力がない人は、このリスクを負うことを避けている内に、どんどんそれが億劫になってしまっています。

物事にはバランスが必要です。マニュアルを軽視し、いつも自分独自の方法で解決しようとすることは、賢明であるとは言えないでしょう。しかし、常時リスクを避けていることは、自分に成長がもたらされないという点で、それこそさらに大きなリスクになってしまいます。考える力のある人というのは、このリスクを取ることと踏みとどまることのバランスが自然と取れている人になります。

考える力がない原因

なぜ考える力に差がでてしまうのでしょうか。それは大人になるにつれて顕著にあれわれます。

ここで、考える力のない原因についてご紹介します。

大人になるほど論理に偏重してしまう

マニュアルの範囲の中で考え、自分で考えるリスクを避けてしまう傾向は、多かれ少なかれ誰しも持っています。物事には度合というものがあり、完全に能動的に考えられる人と、全く受動的な人との両極端に分けられるわけではなく、グレーゾーンにいる人が大半でしょう。

しかしグレーゾーンの中における度合として、大人になっていくにつれて受動的にしか考えられなくなり、考える力を失っていく傾向が見られます。このことは、自発的な人よりも、どちらかというと、上からの意志に従って思考する人を求める社会の傾向に原因があります。

義務教育の段階から、クリエイティブに考える力よりも、規則に従って考える力を伸ばす割合の大きい教育が行われます。これは意識的にせよ無意識的にせよ、社会における大人の持っている傾向が、子供に対する教育にも反映されてしまっていることによります。

論理に偏重してしまう心理

大人になるにつれてリスクを取らない考え方に傾いていく心理には、どういった理由があるのでしょうか。そこには大きく2つの要因があります。

1つ目は、人間には動物としての基本的な生存欲求があることです。この生存欲求には、個として生き残る欲求だけではなく、自分の属する集団のテリトリーを守り、拡大する欲求も含まれます。

こうした欲求はエゴという言葉で言い換えることもできますが、エゴは自分の属する集団の枠を超え出ていくことを恐れる性質があります。赤ん坊や幼い子供にはエゴというものはまだ芽吹いていないのですが、社会の中で人間同士の力の争いを経験するにつれてエゴは育っていきます。

2つ目は、失敗にせよ成功にせよ過去の経験が蓄積されていくことです。ここから未来の出来事を予測することで、過去の心地よかった経験を繰り返し、不快だった経験は避けられるという期待が生まれます。こうした期待ができることは、安心の外観を与えてくれるためにエゴにも満足感を与えます。

このようにエゴや過去の経験に基づいた思考をしていると、ある程度の安全が得られるでしょう。しかしそれでは考える力にオリジナリティやクリエイティヴィティが欠けてくるため、長期的に見ればある程度の結果しか出せない可能性があります。

また何より、そのような考え方は現状維持志向になりやすいので、時間が経つにつれ人生が退屈なものになってしまいます。

考える力のつけ方

原因がわかれが、次は対策を考えましょう。日ごろから意識して癖付けができれば、あなたの考える力を更に伸ばすことができます。

誰にでも直観的に考える力はある

前のトピックで、考える力のある人は直観的に考える力と論理的に考える力を両方バランスよく持つ人だと説明しました。そして考える力のない人は、マニュアルの枠組みの中でのみ考え、独自に問題を立てるリスクを負えない人だと書きました。傾向として、論理的思考のみに依存し、直観的思考が苦手であるように観察されます。

直観的な思考は、主に右脳が司っており、このような思考は物事を想像したり、クリエイティヴなことをするときに必要になります。そしてマニュアルの中にはない問題を立てるということには、この直観的、右脳的に考える力が不可欠です。問題を独自に立てるということは、既存の問題の枠組みにはないものを思考するという意味で、非常にクリエイティヴな行為であるからです。

どのようにすれば、直観的に考える力が養えるでしょうか。直観的思考と聞くと難しく感じる、限られた天才的な人にしかできないように思ってしまうでしょう。しかし、そのように難しく考えてしまうことで、本当に難しくなってしまいます。

普段から誰でも直観的思考はしているものです。大事なことは、その直観的な思考をもっと現実の生活に役立てていく意識です。ここから、直観的に考える力を養うためのエッセンスをいくつか挙げていきましょう。

あえて頭を空にする時間も必要

まず、直観的思考のイメージは複雑さよりもシンプルさです。直観的思考をするためには、遊び心を持つ、頭を意識的に空っぽにするといったイメージをしてもらえるといいでしょう。

普段は適当で遊んでいるように見えるのに、ここぞというときハッとするようなアイデアを出してしまう人が、あなたの周りにもいないでしょうか。

一方で、真面目かつ論理的に考えているのに、その内に思考過多に陥って、精神的に疲れてしまう人もいます。後者の人はいまいち仕事等で効率的に結果も残せません。直観的な思考の性格は、自由な発想が出来ることですが、思考過多に陥った状態からは生まれ得ないものです。

直観的な思考は、ある意味論理的思考に逆行するような考え方になります。論理的思考を意図的にス有数し、頭の中にスペースを作ってあげなければ、直観は降りて来ません。単に論理的に考えていても、自分がしている定義付けの外にある発想は浮かび辛いです。

考える力と無意識

意図的に論理的思考をス有数することは、自分の無意識の領域に働きかけることに繋がります。人間の意識の中においては、顕在意識と呼ばれる意識に上っている思考は氷山の一角です。顕在意識に昇ってこない無意識の領域のほうが遥かに広大であり、ここにアイデアを発想するための様々な可能性が眠っています。

無意識の領域においては、観念は顕在意識において、秩序だって整列されてはおらず、アメーバのように流動的な形をとっています。そしてこの観念同士は、ある程度顕在意識の要求に従いながらも、比較的自由に他の観念と結びついたり、離れたりということを繰り返しています。

顕在意識で論理的に考えることによる締め付けを緩めることによって、無意識の中で観念同士の自由な化学反応が起こりやすくなります。これが直観的思考が起こる原理です。

昨今、グーグルなどの企業で取り入れられ話題になっているマインドフルネスも、意識にスペースをつくり、無意識にアクセスすることを目指した手法になります。

不確定性を受け入れる勇気

例えば、あなたが料理をつくって、レシピで指示されている調味料が手元にないとします。その時、論理的に考えればその調味料を買いに行くか、それに近いもので代用するという考えに行き着きがちです。

しかし、普段から直観的に考えることに慣れている人は、風味がなんとなくその料理に合いそうだという無意識からのイメージから、全く別の調味料や食材を代わりに入れてみる、ということを発想します。結果時に、既存のものになかになかった全く新しい料理を発明してしまう、といったことすら起こります。

このように、無意識を取り込んだ新しい発想は、不確定性を受け入れることができなければ出てきません。つまり、いつも良いアイデアが出てくる保証も、そのアイデアが必ずしも良い結果をもたらす保証もないということです。このため直観的に考えることは一種のチャレンジであり、リスクを伴うということです。

物事の不確定性を受け入れるには、結果に対する性急さを持たないことも重要です。論理的思考は結果への最短ルートを取ろうとします。しかし、回り道のなかに得てして面白いアイデアが転がっているものです。直観的に考える力を養うためには、心理的な心掛けとして、遊び心や余裕を持つことが必要です。

また、普段から面白そうなことに着目する感性も育てていかなければ、直観的に考える力はつかないでしょう。

とはいえ論理的に考える力も必要

とはいえ、直観的思考によって考えられたアイデアは、現実社会の中に落とし込んでいく段階で、既存の常識と摩擦を起こさないように、修正を加える必要があることも事実です。なぜなら直観的に閃くアイデアは多くの場合抽象的なイメージであったり、漠然とした感覚だったりするからです。

アイデアは実現の段階でより具体的な形へと翻訳される必要があり、その段階でアイデアが既存の現実に及ぼす作用を計算する、などの論理的思考もしていかなければなりません。

論理的に考える力を伸ばすには、哲学系の本を読む(特に論理哲学系の本)、囲碁や将棋をやる、数学の計算問題を解く等の方法があります。

論理的に考える力を鍛えることは、スポーツに例えるなら筋力トレーニングに近く、比較的やればやっただけこの種の力は伸びていきやすいです。それに対して直観的に考える力は、スポーツに例えるならばその競技におけるセンスのようなものです。

これを伸ばすには、競技のツボを感じ取るための柔軟な感性、そして何よりその競技を楽しむ気持ちが不可欠になります。このニュアンスは考える力においても似たところが大いにあるでしょう。この2つの力が両輪のように働いてはじめて、考える力を伸ばしていけるのです。

考える力をつける本

忙しく、前述した「意識してイメージする」ことが難しい方は、本を読むこともお勧めです。通勤通学や隙間時間に取り入れやすく、外部から脳に働きかけることで違う刺激にもなり、脳が活性化されます。

書籍を2冊ご紹介します。

人間はいろいろな問題についてどう考えていけばいいのか / 森博嗣 著

ベストセラーを数多く生み出す多作な小説家にして、工学博士、元大学助教授という文理にまたがった異例の肩書きを持つ著者が、具体的な問題に囚われない「抽象的思考力」を養う方法について書いた本です。

森博嗣さんの小説作品は論理的技巧に満ちていながら、論理の枠に収まらない奥深い感性を感じさせます。そんなミステリアスな著者が一体どのようにして普段思考しているのか、それを垣間見られそうな本書は著者の小説のファンであれば興味深いことこの上ないでしょうが、それ以外の方にとっても考える力を伸ばす上で多いに得るものがある一冊でしょう。

直感力 / 羽生善治 著

言わずと知れた将棋界の生きるレジェンド羽生善治氏が、その数々の対局の中で得た、直感的に考える力の本質について書いた本書は、一般人の私たちからすると想像の届かない境地について書かれているようにも思えてしまいます。

しかし、ものごとの本質というのは、かえってシンプルなところに帰着するものだとも言えます。もちろん読む側のレベルに応じて、彼の言葉から受け取れる共感のレベルは違ってくるでしょうが、どのようなレベルの人でも、読んでみるだけで常識に囚われた思考をもう一度シンプルな本質へと戻してくれるような力が、この一冊からは感じられます。

人は、考えていないときに考えている

私たちは「問題」と聞くと、障害のようなネガティブなイメージをもってしまいがちです。しかし考える力のある人は、よりよいものを生み出そうとする意志のあるところに問題はつくられる、とポジティブに考えることができます。問題があるところには、能動的に何かを生み出す余地があるとも言えます。

「好きこそものの上手なれ」という諺がありますが、このように問題を提起し、それを解決する発展的なプロセスの楽しさを知れば、考える力は自ずと伸びていくものです。

考える力を伸ばしたいからといって、そのための方法を考えることにがんじがらめになるよりも、一旦考えることをやめて、楽しく考えるイメージから、もう一度考える作業に戻ってくることで、考える力の本質がつかめるでしょう。

論理的に考えるのもいいですが、それだけでは疲れてしまいますし、片手落ちです。机やパソコンの前でよい考えが浮かばないか、考え込んでいるあなたも、休憩がてら一度外へ散歩などに出て、リラックスし、頭を空っぽにしてみてはいかがでしょうか。かえってそのときより良いアイデアがポンと浮かんでくることも多いものです。

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