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家紋が橘の苗字・種類・家系・家紋が橘の意味・有名人|丸

Author nopic icon橘ケイ
カテゴリ:文化

初回公開日:2018年05月18日

更新日:2020年02月28日

記載されている内容は2018年05月18日時点のものです。現在の情報と異なる可能性がありますので、ご了承ください。

また、記事に記載されている情報は自己責任でご活用いただき、本記事の内容に関する事項については、専門家等に相談するようにしてください。

家紋が橘の苗字・種類・家系・家紋が橘の意味・有名人|丸

家紋「橘」の意味と成り立ち

橘(たちばな)は、ミカン科の常緑樹で柑橘類の一種です。季節に関係なく常に青々と茂る葉が永遠を意味するとして不老や恋の和歌に詠まれ、立木の凛とした姿から「太刀花」とも称された事から多くの文人や武家に家紋として使用されてきた歴史があります。

日本文化の中の橘

橘は古くは古事記・日本書紀にも記され、垂仁天皇の御代に田道間守という人が常世の国に遣わされて「非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)」という不老不死の霊薬を持ち帰りましたが古事記に非時香菓が「今の橘なり」と記された由来から京都の御所では「右近の橘」「左近の桜」として紫宸殿に植えられ、桜や梅・桃とともに愛でられてきたと伝わりました。

1937年に制定された文化勲章の最初のデザインは桜の花でしたが、当時の昭和天皇の
「文化勲章は永遠のものなので、花のデザインも永遠を意味する橘がふさわしい」という
意向で、現在の橘の花にデザインが変更されたという逸話もあります。

家紋「橘」の成り立ち

飛鳥時代末、宮中に永らく仕えてきた女官に「県犬養三千代」という人がいました。時の天皇、元明天皇は「右近の橘」を殊のほか愛でられた天皇で、県犬養三千代の長年の功績を称えて三千代と息子たちに橘の花が浮かんだ杯とともに「橘宿祢」の氏姓を賜与したと言われています。

家紋「橘」ゆかりの橘氏

こうして県犬養三千代と息子たちの一族は橘氏を名乗る事になるのですが、この時代にはまだ家紋というものは存在しませんでした。やがて平安時代になって橘氏は多くの貴族を輩出し、他家の調度品と区別するための家のシンボルとして橘の紋様を使用するようになります。これが後世になって家紋として発達したと言われています。

家紋「橘」の広まり

橘氏は藤原家と並ぶ名門の氏族でしたが藤原家との権力争いに敗れ、その後は振るわなくなったために「橘紋」を独占するには至らず、橘氏と橘紋のブランドにあやかった多くの他氏族に流用されて家紋の橘は広まっていったようです。

橘を使用した代表的な家紋の種類

橘を使用した代表的な家紋の種類をご紹介していきます。

橘紋様の家紋

「橘紋」の基本となる家紋で橘氏の定紋です。他には橘氏流渋江氏の分流で肥前国杵島郡長島庄に発祥の肥前中村氏などが使用しています。橘は温暖な気候の地域に育つ樹木で、橘の家紋も橘の自生地域と同じく長野県以西の本州や四国・九州に多く分布しています。

丸に橘の家紋

橘氏の分家や藤原家、源氏、平氏など橘氏以外の氏族が主に使用した家紋と言われています。

井伊家の家紋「彦根橘」

遠江国井伊谷に発祥、徳川家に仕えた彦根藩大名、井伊氏の家紋で「井伊橘」とも言います。この家紋は「丸に橘」の家紋に似ているのでよく混同されますが、花の中の文様や枝の形が微妙に違います。

その他の橘の家紋

黒田氏の「黒田橘」、久世氏の「久世橘」、薬師寺氏の「薬師寺橘」、また「井桁に橘」は日蓮宗の寺紋として知られています。その他にも「八角に橘」、「橘に藤巴」など50~72種の橘の家紋が存在しています。

橘を家紋とする家系

橘を家紋とする家系をご紹介していきます。

橘の家紋と言えば橘氏

和銅元年(708)、長年にわたって皇室に仕えてきた県犬養三千代は、功績を称えた元明天皇によって「橘宿祢」の氏姓を賜与され橘三千代と名乗りました。

本来、この特典は彼女一代限りのはずでしたが、三千代の没後、息子の葛城王と佐為王が皇籍を離れて臣下に下る時に「橘宿祢」の氏姓継承を願い出て許され、それぞれ橘諸兄、橘左為を名乘り氏族としての橘氏は、ここからはじまったと言われています。

この時代にはまだ家紋は存在しませんでしたが、後世になって橘氏出身の貴族が氏姓にちなんだ橘の花木の紋様を家のシンボルとして使用するようになり、それが橘の家紋となりました。貴族を輩出はしたものの藤原家との政争に敗れて出世の道が閉されます。

一族から第52代嵯峨天皇の皇后・嘉智子を出して名門の仲間入りを果たしますが、16世紀末には直系が絶え、ついに古代から続いた豪族「橘氏」は断絶します。

筑後橘氏

平安時代に筑後国蒲池を領した橘氏の庶家。橘諸兄から五代後の橘広相の五男で中納言・橘公頼が大宰権帥として九州に下向。承平天慶の乱で関東の平将門と同時期に伊予で藤原純友が伊予で反乱、藤原純友の乱が発生します。大宰府を落として柳川に迫った藤原純友の弟・純乗の軍勢を三男・敏通と共に蒲池で撃退。この功により敏通は蒲池の領主となります。

敏通の子孫は代々、大宰府の府官を務めますが、源平合戦の功で筑後国三潴郡の地頭職となった鎌倉幕府の御家人、嵯峨源氏の源久直が蒲池領主の橘氏の娘婿となって定住。初代蒲池氏を称しました。こうして筑後橘氏は嵯峨源氏の一族として取り込まれていきました。

肥前橘氏

筑後橘氏と同じく肥前国長嶋を領した橘氏の庶家は、藤原純友の乱で純友を討った功により伊予国宇和郡を賜った橘好古の子孫といいますが異説もあります。その後、鎌倉時代の橘公業の代になり頼朝に仕えて功のあった公業は出羽国秋田郡に領地を賜りますが、鎌倉幕府第4代将軍・藤原頼経によって旧領の宇和郡を取り上げられ、替地として肥前国杵島郡長嶋を与えられました。

こうして橘公業の一族は肥前国を中心に広がり橘公村の代には渋江氏を名乗り、弟三人にそれぞれ牛島・中村・中橘を名乗らせました。肥前橘家・渋江氏の隆盛は室町時代まで続きますが、やがて下剋上の乱世に呑みこまれ、豊臣政権の末期には壱岐の松浦氏を頼る身となって歴史から消えていきました。

遠江国の井伊氏

遠江国引佐郡井伊谷に発祥の井伊氏は、本姓は藤原北家といい、家紋は橘ですが橘氏とは関係がありません。井伊氏と橘の係わりについては家伝に一つの逸話が記されています。

井伊氏の始祖は井伊共保という平安時代の人物ですが、赤ん坊の頃、井伊谷八幡宮の御手洗の井戸の傍に捨てられていた捨て子でした。そこを八幡宮の神主が見つけるのですが、手に橘の枝を握っていたそうです。この赤ん坊は7歳になって藤原北家出身で遠江国司の藤原共資の養子となって家督を継ぎ、井伊谷に館を構えて井伊氏を称しました。

その伝説から井伊氏は井戸の井の字と橘紋を合せた「井桁に橘」を家紋としました。後に家紋は二つに分かれて橘紋を家紋、井桁紋を戦の旗印にしました。「井桁に橘」といえば日蓮宗の寺紋が知られいますが、これは日蓮が共保から8代目の井伊盛直の時の分家・貫名氏の出自だとする伝説に由来しています。

徳川四天王の一人

井伊氏は遠江守護の今川氏に臣従したり対立したりと微妙な関係が続きますが、戦で討ち死にしたり今川氏に謀反の嫌疑をかけられて討たれ、一族の多くを失なって断絶寸前まで追い詰められます。天正三年(1575)、今川氏真に討たれた井伊直親の遺児・直政は今川氏を滅した徳川家康を頼って仕官。数々の戦で武功を立て、徳川四天王の一人と呼ばれるまでになります。

徳川幕府を支えた大々名

慶長五年(1600)関ヶ原の戦いの後、井伊直政は近江国佐和山に18万石を与えられます。直政の死後、長男の直勝(直継)は彦根に築城しますが、病弱だったため幕命によって井伊宗家の座を弟の直孝に譲ります。直孝は彦根藩主となって30万石の譜代大名となります。直勝(直継)は父・直政の官名・兵部少輔を世襲して分家し、上野国安中藩3万石の藩主になりました。

井伊宗家彦根藩は5代6度に渡って大老職を出すなど譜代大名筆頭の家柄として栄えます。橘の家紋を彦根橘に変えたのもこの頃です。

武蔵七党、猪俣党の小野氏

平安時代の歌人・小野篁に始まるという小野氏は藤原家が台頭してくると朝廷での勢力を失い、地方に下向していく者が出てきます。その中に篁より 八代の孫で東国に下向した武蔵守孝泰という人物がいました。孝泰は武蔵国多摩郡横山に土着し、東国武士団・武蔵七党の横山党と猪俣党の祖となりました。家紋は「三ッ星」や「丸に橘」を使用していました。

小野氏といえば春日氏系の小野氏が知られていますが、小野の地名が全国に分布していることもあって、出自も家紋もさまざまな小野氏があります。

土佐の安芸氏

現在、日本で一番橘紋が多いのは高知県です。土佐国東部に栄えた安芸氏は壬申の乱で土佐に流された蘇我赤兄の子孫と伝わりますが、藤原家や橘氏などの異説も多く、安芸氏の本家は橘姓を称して橘紋を家紋としました。ただ「見聞緒家紋」という大名家の家紋を収集した書物にみえる安芸氏の定紋は「三つ割剣花菱」です。

戦国時代、安芸氏は長宗我部氏に敗れて滅亡。長宗我部氏は一族や多くの家臣に安芸氏の橘紋を与えたため、土佐国に橘紋の家紋が増えていきました。

橘を家紋とする苗字

「橘」の苗字は兵庫県が一番多く、橘紋を家紋とする家も多いと言われています。兵庫県といえば南北朝時代に播磨国を支配した大族・赤松氏。赤松氏自身は村上源氏の出自で家紋も「二引両に左三ッ巴」と橘紋ではありませんが、家臣には橘を家紋とする苗字が多いです。

これは播磨が田道間守にゆかりの地で、橘諸兄の橘氏とは別系統の田道間守の子孫が橘姓を名乗って播磨に住んでいたからと言われています。

中村

中村氏は、村が発展するに連れて分村や子村を作る元になった村のことをさして産まれた苗字です。

そしてその村のなかの家の位置などで、「上村」「下村」「中村」などと名付けられていきました。

家紋が橘の有名人

家紋が橘の有名人、偉人を集めてみました。こんな人が橘の家紋だったのか、と驚く人もいることでしょう。

赤松家の重臣 小寺氏

戦国時代、西播磨の国人として御着城を拠点とした小寺氏は播磨守護職・赤松氏と同族で戦国の名軍師・黒田官兵衛孝高の黒田氏の主家です。赤松氏と同じ一族ですが家紋は「橘に藤巴」という藤巴紋に三ッ橘紋を合せた家紋です。

黒田官兵衛孝高(黒田如水)の黒田氏

播磨国の国人・小寺氏に仕えた黒田氏は宇多源氏佐々木氏流を称しますが、孝高の祖父・重隆より以前の系譜はよくわかっていません。孝高の父・重職が小寺氏の養女を娶った時に小寺姓を名乗ることを許されて小寺氏の家紋「橘に藤巴」も賜りました。

黒田氏の家紋というと「黒餅」や黒田藤といわれた独特の「藤巴」紋が知られますが、小寺氏の家紋から「藤巴」紋を抜いた「三ッ橘」(黒田橘)を替紋として使用しました。黒田氏は主家の小寺氏が織田信長に敗れると織田信長、豊臣秀吉に仕え、筑前国福岡藩の大名になります。

室町幕府の重臣 薬師寺氏

藤原秀郷流小山氏の後裔という、小山長村の子・政村が薬師寺五郎三郎を名乗って薬師寺氏の祖となります。足利尊氏の執事・高師直に側近として仕え、康永3年(1344)関東管領となった高重茂(髙師直の弟)を補佐して関東に下向し、武蔵国守護代となります。

薬師寺公義の時、配下の武蔵武士団を率いて常陸国に出兵しますが、逆に常陸国の上杉能憲の侵攻を受け、髙氏を見限って京都に出奔しました。

その後、薬師寺元長の代には室町幕府の管領・細川家に仕えて摂津の守護代になり応仁の乱で活躍します。細川京兆家の内紛で薬師寺国長が細川晴国と戦って討死すると次第に没落。三好長慶に城を追われて播磨国守護職・赤松氏の与力衆となります。家紋は薬師寺橘(丸の内に三本橘)です。

最近では薬師寺氏の祖を因幡国の国司で因幡薬師堂(平等寺)を建立した橘行平とする説があります。

橘紋は日本人の奥ゆかしさの象徴

桜が散り際の美しさから「潔さ」を象徴したのとは対照的に、橘は冬でも寒さや雪に耐えて育つことから「奥ゆかしさ」や長寿の象徴として、古くから文人や武士に愛されてきました。橘紋は橘氏の代表紋ですが、橘氏が早くから没落したため中央から地方へ流れた一族が多く、橘の苗字と共に橘紋も全国に分布していきました。

橘紋は縁起の良さから橘氏以外でも使用する家が多く、主家が家臣に褒美として与えたり、使用する家に無断で他家が家紋を使用する「潜用」などもあって、家柄とは関係なく家紋の移動、やりとりが頻繁に行われ広まっていったと言われています。源氏の「笹竜胆」紋や平氏の「揚羽」紋など、他家の代表紋にはない橘紋の特徴です。